Gloss

月森×日野

「あ、しまった」

 食事を終えて店を出る直前、香穂子の分の料金を受け取ってレジで一緒に精算を済ませる月森の背後で、バッグの中身を確認していた香穂子が小さく呟く。何事かと振り返ってみても、香穂子は大丈夫だと片手を振る。とりあえず手早く精算を終え、二人は店の外に出た。
「どうした? また何か落とし物でもしたのか?」
「……月森くん、私はしょっちゅう物を落とす子だと思ってるよね?」
 店を出るなり真顔で聞いて来た月森に、香穂子は少しだけ頬を膨らませて拗ねる。「まあ、言われても仕方ないこといつもしてるけど」と、すぐに気を取り直したように溜息をつき、香穂子は指先で自分の口元に触れる。
「落としたわけじゃないんだけど、リップを家に忘れて来ちゃったみたいなんだ。食べたり飲んだりしたから、多分落ちちゃったし……」
「別に、大したことではないだろう」
「そうなんだけど。冬場は乾燥してるし、元々私、唇荒れやすくて。困るんだよね……」
 月森から見れば、リップが落ちているのかどうかは一目で判断が付かないし、付けないことが生活の何らかを左右する大事になることとも思えない。だが、いつもは出来ることが出来ない、ということが気になるのか、歩き出しても香穂子は何処か心あらずの雰囲気で、無意識に指先で唇に触れる。薬局やコンビニを通り過ぎるたびに迷う素振りを見せるから、新しいものを買うかどうかで悩んでいるのだろう。
「……そこまで気になるのであれば、いっそ新しいものを買ってしまった方が落ち着くように思えるが」
「だけど、普通使っててもそんなに極端に減るものじゃないから、わざわざ買うのは勿体ないんだよ」
 確かに数百円ほどの大した金額ではない買い物だが、小遣いをやりくりして一ヶ月を過ごす香穂子には、少々のことでも、できれば無駄な出費は避けたいところなのだ。小遣い前になると、ジュース一本買うかどうかも真剣に悩む香穂子を知っているから、月森は小さな溜息混じりに苦笑する。
「そこで君が迷うようなら、確かに買わない方がいいな。……多少乾燥したところで、何か特別に問題になることはないんだろう?」
「それは、そうだけど……」
 言いながら、香穂子はちらりと上目遣いに月森を見上げる。
 物言いたげな香穂子を、怪訝そうに月森が見下ろすと、香穂子は俯いて足元を見つめ、月森に聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。
「女の子としては、唇荒れてるところとか、あんまり好きな男の子には見せたくないって言うか……」

 くるくると、目まぐるしく変わる表情。
 その変化に目を奪われて、振り回されて。
 そうして月森の中でも動く……変わる。
 これまで何者にも脅かされることのなかった、頑な感情。

 不意に、月森の片手が動く。
 視界の端にその動きを捉えて、ん?と香穂子が訝しんだ瞬間、香穂子は月森の片手に腕を取られ、傍の狭い路地へと連れ込まれてしまう。
「ちょ、ちょっと、月森くん? いきなりどうし」
 言葉は、最後まで告げることが出来なかった。
 月森の様子を見ようと顔を上げたところで、香穂子の唇は、月森の唇に塞がれてしまったからだ。
「……んっ」
 ただ触れるだけで終わらない深いキスに、思わず甘い声が漏れる。
 数歩歩けばすぐに人込みに呑み込まれる都会の死角で、決して他人には容易く見せられない濃厚な口付けは、妙な焦燥感と高揚感とで香穂子の脳を酔わせていく。
 開いた唇を、呼吸が触れる至近距離でわずかに浮かせ、月森が何だか、とても綺麗に笑う。
「……これで、充分に潤っただろう?」
 確かに、先程までリップグロスが落ちて、冬の冷たい風に晒され、乾き切っていた香穂子の柔らかな唇は、濃厚なキスの余韻で充分に濡れている。
「……そ、そういうことをして欲しかったわけじゃないから!」
 懸命に月森を睨み付けて強がるけれど、突然の思いがけないキスに否応なく翻弄された香穂子は、微かに震えて、そして唇だけじゃなくて、その瞳までも潤わせて。
「……だが、突然可愛くなる、君も悪い」

 ……結局のところ、月森もまた。
 突然の香穂子の可愛らしい言葉とか。
 仕草や態度とか。彼女が持つもの、その全てに。
 いろいろなものを翻弄されて。
 常識とか、理性とか。
 そういうものを、見失ってしまうから。


 濡れた唇に、その瞳に。
 誘われるように月森は、また繰り返し香穂子の頬に触れて、口付ける。
 初めは戸惑うように、月森のシャツの袖を握って、そのキスから逃れようとしていた香穂子の指が、そっと力をなくしていく。

 更に酔わされる深い口付けの狭間で。
 そう言えば、リップグロスの広告のコピー文に、『キスしたくなる、うるおい唇』なんてことが書いてあったっけ、と。

 そのリップグロスを選んだ最大の理由を思い出しながら。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.3.21】

サイトで書く分にはあまり何も思わないけど、ブログだからな……微エロくさいな……と結構葛藤した話。
「まっ、いっか!」とあっさり掲載しましたけれどもね。

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