その理由は、漠然とながらも分かっている。
過ごす日々が、これまでになかったくらいに充実していて、幸せな所為だ。
特に彼女に逢っている時に、そんな時間の流れの早さを実感する。今顔を合わせたばかりのような気がするのに、気付けば別れる時間になっている。……そんな日々の繰返し。
このまま時間が止まってしまえばと、何度も思った。立ち止まることを……停滞することを何よりも厭っていたはずの自分が。そんなふうに、不安や恐れだけを感じるために選んだ道ではないはずなのに。
「……離したくはないな」
軽く繋いだ手を見つめ、小さな声で呟いてみる。
届かないと思っていた声は、肩と腕が触れるくらいの距離で並んで歩いている彼女にはきちんと届いてしまったようで、驚いたように目を見開いて、香穂子は月森を見上げた。
ぱちり、と大きく瞬きをした香穂子が、少しだけ寂しげに微笑み、「……そうだね」と頷いた。ほんの少し、繋いでいた指先に彼女の力が加わる。決して月森のヴァイオリンを弾く手を脅かすことのない……それでも離したくないという意志を明確に伝えてくれる優しい束縛。
「最近、このまま時間が止まっちゃえばいいのにって、よく思うんだ」
「……ああ、俺もそんなことを考える」
並んで歩く歩調は、香穂子の家に到着した時点で終わってしまう二人で過ごす時間を憂いてか、無意識のうちにゆっくりになっていく。それでも、二人を取り巻く時間の流れまでが速度を緩めることはない。
時は進む。分け隔てなく平等に。
情け容赦なく、とても残酷に。
だが、香穂子は笑う。
曇りなく、とても晴れやかに。
「でもね。多分それも全部私が幸せであることの裏返しなんじゃないのかな……」
ほんの数カ月前まで、夢中になれるものが何一つなかった、退屈な香穂子の日常。
あの学内音楽コンクールで出逢ったヴァイオリンが、そして月森が、今の香穂子にとって、日常に彩りを与える大切なもの。
……失うことを恐れるものを。
いっそ、このまま時が止まってしまえばいいと願えるほどの幸せを。
香穂子が手に入れたからこそ、何ものにも左右されない残酷な時間の流れがこれほどに哀しい。
あの頃のように、今もまだ香穂子が何も手にしていなかったら。
……一緒にいるだけで、傍にいるだけで幸せを感じることができる人に出会えていなかったら。
きっと、香穂子はそんな時間の儚さ、そして大切さを知ることはなかった。
無限にあるものと勘違いをして、湯水のように無造作に使い込んで、たくさんの大事なことを取りこぼす。……そんな失態を自分が犯していることすら分からないままで。
「……残された時間が少ないから。どれだけ祈っても時間は止まってくれないから。だから私は、月森くんと一緒に過ごす時間を大事に大事にしていられる。それってね、絶対これから先、私が生きていく上で無駄になることじゃないんだよ」
少なくとも、今までのように無意味に時の流れの中を香穂子が泳ぐことはないだろう。ほんの数分ほどの時間ですら、どれほど大切なものなのかを香穂子はもう知っているから。
そして、そんな事実は。
香穂子が月森を好きになって、月森が香穂子を好きになって、もうすぐ離れ離れになるということが分かり切った状況で、互いに想いを交わすことがなければ、香穂子は一生知ることがなかっただろう。
「……君は、前向きだな」
苦笑する月森が溜息混じりに呟く。偉いでしょ、と香穂子が得意げに笑った。
それでも、と、月森はふと、夕焼けの痕を残し、ほんのりと群青とオレンジのグラデーションに染まった西の空を見上げた。
「それでも、もう少しだけ。……ほんの少しだけでいいから、君と一緒に歩く時間が、ゆっくりと流れればいいのだが」
時は、否応なく前に進む。
誰にでも平等に。情け容赦なく。
目の前にある幸せをただ噛み締めていたい人間に頓着することはなく、残酷に流れていく。
月森と香穂子の別れの日も、確かな足音と共に近付いてくる。
だが、その残酷なタイムリミットが二人にあるからこそ。
どんな些細な幸せであろうとも、二人は大切に拾い上げて、抱く。
別れ際の、触れ合うだけの口付けさえも。
宝物だと言える幸せを。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.4.10】
2ベースなので、切ない雰囲気が根底にはありますが、一応前向きなものを目指して書いていたと思われます。
時間の流れは残酷だよ。否応なく年取るもんね!
………orz(凹んだ)


