ほんの少し歩調を速めればやり過ごせる進行の中断を、月森は敢えて受け入れる。ゆったりとした歩調は崩さずに、数回の信号の点滅を最後まで見届けて、信号が赤になった時点で交差点へと辿り着いた。
遅れることも脇道にそれることも嫌いな自分が、ここ数週間のうちに覚えてきた新しい感覚。歩調を緩め、回り道をし、そうして拾っていくいろいろなもの。
無駄だと切り捨てていたそんなものが足りないから、自分の奏でる音楽の幅はいつしか狭められていたのだと気付いたのは、つい最近の事だ。
(無駄なことなんて、ないと思うよ)
綺麗事ではなく、素直にそう言える人間に、月森は初めて出逢った。
五感で感じる全てが決して無駄にはならない、何かの役に立つんだと言い切れる人物。確かにそういう意味合いのことをこれまでも周りには何度も言われて来た気がするのに、月森には今までどうしても理解が出来なかった。
彼女の言葉だけ信じる気になれたのは、彼女が目に見えて、それを体感している人物だからかもしれない。自分を諭して来た大人達はもう既にその段階を通過して来た人達だから、何を言われても受け取る印象が漠然としていて。
だが、彼女は月森の目の前で、自分が口にしたことを体現していく。ちょっとしたことに一喜一憂して、些細なことに心を動かして。そうして、彼女はたくさんのものを得ていく。……同じ感覚を、月森にも教えてくれる。
(……ああ、違うな)
立ち止まった十字路。目の前の信号が進行を促すのを待ちながら、ふと自分の脳裏をよぎった思考に、月森は自嘲して首を横に振る。
(それでは、まるで彼女が俺に違う世界を見せてくれるから……ということになってしまう)
月森が、彼女に好意を抱く理由。
確かに、彼女は今まで月森が後生大事に握り締めていた価値観をことごとくひっくり返し、月森に新しい感覚を植え付けてくれた。
今まで知らなかった世界を見せてくれたことに、月森は感謝している。
だけど、彼女を好ましく思う理由は、きっとそれが始まりじゃなくて。
(きっと、もっと単純なことだ)
……月森が、心の奥の何処かでずっと愛せなかった自分の音色を。
彼女だけが、嘘偽りのない本心で、好きだと言ってくれたから。
(ヴァイオリンって、こんなに綺麗な音が出るんだね)
月森が認められなかった月森の音色を。
彼女だけが、拾い上げて愛してくれたから。
自分でははっきりとは気付いていなかったけれど、きっとずっと月森はそのことが嬉しくて。
彼女のことを、好ましく思っていた。だからこそ、どうしても彼女の事を突き放せなかった。
……おそらく、彼女が与えてくれる新しい世界だけ、覗き込んでみる気になったのは。
初めに月森が彼女を好ましく思う気持ちがあって、そんな彼女が月森を脅かす世界を持っているはずがないと思っていて。
踏み込んで、覗き込む勇気が持てたからだろう。
これまでだったら、先へ先へと歩調を早めて、脇目も振らずに素通りしていたはずの十字路で月森は立ち止まる。
急ぐことを誰にも強制されてはいない道程で、足を止めることは決して罪ではない。足を止めること、速度を緩めることで、見えてくる、手に入れられる何かがあるのかもしれないから。
「あ、あれ。月森くんだ」
月森が辿る道筋の、思いがけない脇道から飛び込んでくる、心地のいい声。
視線だけを声の方向へ向けると、そこには少し驚いたような顔で、日野香穂子が立っている。
「おはよう。……何か、通学途中で逢うのって、珍しいよね」
屈託なく笑う彼女が心無しか弾んだ声でそう告げる。
……この偶然の出逢いを、彼女も喜んでくれているのなら、嬉しいけれど。
「……君の生き方を、真似てみたんだ」
小さな声で、月森が呟く。
その声は香穂子には届かなかったようで、不思議そうな表情を浮かべる香穂子が、小さく首を傾げた。
「え? 何?」
「いや。……おはよう、と言っただけだ」
ゆっくりと自分が生きる道筋を歩き。
そこに存在する様々なものを、有益無益関係なく拾い上げて、大切に慈しむ。……そんな彼女と、全く同じ生き方は出来ないけれど。
先へ急ぐ歩調を少しだけ緩めて、自分を取り巻く風景を眺める余裕を持って生きる。
そうしたら、ただ前へ突き進むしかないと思っていた自分の進行方向に、まだ道が存在することに気付く。
……そんな脇道へ、それることはなくても。
自分が必要ないと思い込んでいた道から、思いがけない幸福がひょっこり顔を出したりすることもある。
ひとつ、信号をやり過ごして。
十字路で立ち止まる。
そうすることで手に入れた。
このささやかで、幸せな邂逅のように。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.4.17】
結構落ちている時に書いているはずなんですけど、読み返してみると随分と前向きな……凹んでたからか(笑)
月森が結構悟ってて、こういう感じもいいなあと思ったりして。香穂子の影響があって、という前提の元ですけどね(笑)


