お世辞にも片付いているとは言えない音楽準備室の、無造作に教材や書類が積み重なった机の上で、月森から受け取った書類の束を確認した教師の金澤が小さな安堵の息をついた。
「はい、後はよろしくお願いします」
丁寧に月森が頭を下げると、「んー」と火のついていない煙草をくわえたまま、気のない返事をした金澤が、傍の不揃いに積み上げられた書類や教材の山の頂上に、月森が提出した書類を更に積み上げた。
大丈夫なのだろうかと不安に思いながら不安定に揺れる書類を一瞥し、準備室を後にしようとした月森の背中に、ふと思い出したように金澤が声をかけた。
「……ああ、そういや月森。お前さん、留学のことはちゃんと話してあるのか?」
「え?」
思いがけない金澤の問に、月森は目を見開いて振り返る。回転椅子を斜めに返して月森に向き直った金澤が、妙に真面目な表情で月森を見つめる。
「日野にだよ。ちょっと遊びに行くって期間じゃないんだ。ちゃんと話しておかないと、いろいろ揉めるんじゃないか」
「……いえ。まだ」
月森は俯いて小さな声で呟く。
「話だけが先行して、余計な憶測をさせてもいけないので。全てが確定してから、話そうと思っていました」
「……成る程。そういう慎重さは、お前さんらしいっちゃ、お前さんらしいな」
がしがし、と片手で乱暴に自分の髪を掻き乱し、金澤は小さく溜息をついた。
「……で、これでお前さんの留学は確定ってわけだ。後はずるずる引き延ばさず、きちんと日野に話をしてやれ。言いにくいのは分かるが、いつまでも黙ってたら余計に切り出しにくくなるんじゃないか?」
「……分かって、います……」
(香穂子に言えずにいたことは、最初からバレているのだろうな……)
いい加減に見えるが、本当に必要なことはきちんと教師らしい応対をしてくれる金澤のことだ。留学の準備を滞りなく進めていく裏側で、月森が抱き続けていた葛藤など、最初からお見通しだったに違いない。
高校を卒業したら、ヨーロッパへ留学をすることは、それこそ高校に入学した当初から月森の人生設計の中に当たり前に組み込まれていた。本格的に音楽の道を志すものとして、少し遠回りになってしまったとは思うが、その遠回りが無駄だったのだとは、今の月森は思わない。
自分の音楽が一番必要としている時に、本場の音楽を学ぶ機会を貰った……なるべくしてなった今回の留学だと、月森は思っている。
ただ一つ、月森の予想を越えた出来事。
それは、月森が恋をしたこと。
……そして、その恋が叶ってしまったこと。
最高学年になって、卒業後の進路を模索し、当然のように留学の準備を進めて来た。だが、程なくして月森は気付く。留学という道の向こうに、自分の恋人の姿がないことを。
(ただ、ヴァイオリンを弾くことが楽しいだけなんだ)
そう曇りなく言って、屈託なく笑って。
音楽の道を極めようとはしない自分の恋人。
……自分達の人生は、辿り着く場所が違うと気付いたのは、本当はずっと昔の事。
ただ、月森は今まで、そのことを敢えて見ないようにしていた。
(君と過ごす日々は幸せで)
今までモノクロの無機質だった景色に、突然鮮やかな色が生まれて息づくみたいだった。
月森とは全く違う環境でこれまでの人生を生き、違う姿勢で音楽へ向き直る存在。……今までは頑に否定していたそんな存在を、彼女だけは否定出来なくて。
ほんの少しだけ交わる人生。それも悪くないと、ただ通り過ぎるだけのはずだったのに、思いがけず月森の人生に深く侵入して来た彼女。
……月森が辿る道は、彼女の生きるものとは決して変わることはないのだと分かっていたのに。
違う道筋を生きる彼女の侵入を、月森は受け入れた。
その暖かさ、甘さに。
我を忘れて酔ったのだ。
(いつか、別れる日が来ることなど、初めから分かっていたのだから)
本当は月森は、彼女を受け入れてはならなかった。
月森が音楽の道に生き、彼女が同じ道を歩まない限り、二人で過ごす幸福は、期限付きのものだと分かっていたのに。
月森は、目の前の儚い幸せを望んでしまった。
それは、彼女が与えてくれた優しく穏やかで、何よりも激しく強い、愛情というものを。
どうしても捨て去って、初めからなかったことにすることが出来なかった、月森の弱さ故の罪だ。
そうして、今。
もう逃げられない選択の場に辿り着いてしまって。
それでも、どうしても。
月森は彼女に離れ離れになるその日が来ることを、告げられずにいる。
「あ、月森くん」
思案しながら暗くなってしまった校内を歩いていると、不意に明るい声が月森の名を呼ぶ。弾かれたように顔を上げると、帰り支度をした香穂子が目の前で笑って手を振った。
「香、穂子……」
金澤に書類の提出をしなければならなかったから、彼女には先に帰るように言っておいたはずだった。思いがけない人物が目の前に現れたことに、驚いて月森は目を見張る。
「帰ったんじゃなかったのか……?」
「笙子ちゃんと天羽ちゃんと会って、ずっとカフェテリアで女の子同士の話で盛り上がってたんだよ~。帰ろうとしたら月森くんの後ろ姿が見えたから、慌てて追っかけて来ちゃった」
えへへ、と照れくさそうに笑う彼女が。
……変わらずに愛おしいから。
「……月森くん?」
もう少し、あと少し。
何も言わずに、この幸福を続けたいと願う自分の笑顔は。
きちんと笑顔として、彼女の目に映っているのだろうか。
「いや……それなら、一緒に帰ろうか。君の家まで送っていくから」
視線を伏せてそう告げた月森の様子に、不安そうな表情をしながらも、うん、と素直に頷いた香穂子が、当たり前のように月森の指先に自分の指先を絡める。
ぎゅっと、強く手を握り締めて。
同じ方向へ歩き出して。
ずっと、ずっと、こんな日々が続けばいいと願うのに。
……その願いが叶わないことを、月森は知っている。
屈託のない彼女の笑顔に、時折宿る陰りも。
彼女の言葉の端々に、そっと息づく絶望の影も。
……本当は、自分の所為なのだろうと月森にも分かっているのだけれど。
全て、気付かない振りで。
もう少しだけこのままで、と。
いつかは公に晒さなければならない選択の答えを、先延ばしにするのは、ただの狡い逃げの行為でしかないと知っているけれど。
それでも、何事もなかったかのようにこの暖かな手を離せるほど、自分は強い人間ではないのだから。
自分のそんな狡さと弱さを、ただ苦く噛み締めて。
それでもなお、彼女の与えてくれる甘さと温もりを。
いつかは手放さなければならない、そんな愛おしいものを。
……今はただ、求め続けるだけ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.4.18】
無印、そして「キラキラの街」に向かう話のつもりだったので、かなり切なめの内容になりました。無印設定の時には留学を期に二人は別れる、という流れにしてるんですが、嫌いになって別れるわけじゃないので、きついだろうなーとか(自分で書いておいてね)。
でも、月森はそういうケジメを付けそうな気がするんだよなあ。


