その日、練習室でしばらく二人で練習を続けた後、一段落しようと月森が窓を開け、その前の練習でどうしても突っかかってしまう旋律を香穂子がおさらいしている隙に、窓の外から聞こえる葉ずれや風による雑音に乗せて、月森が発したのはそんな一言だった。
元々綺麗には響いていなかった香穂子の音色は、車の急ブレーキみたいな甲高い音を響かせて、止まる。眉間に深い皺を刻んだ香穂子が、月森を振り返った。
「……月森くんって、自分について他人がアレコレ言うのは全然気にしないのに、そういうどうでもいいことって、意外に気にするよね?」
「そう……だろうか?」
音楽科で一、二を争うヴァイオリンの実力の持ち主である月森と、学内音楽コンクールに参加するまで人々の噂になることがなかった、至極平凡な存在である普通科所属の香穂子。
この二人がコンクール後、晴れて彼氏彼女の間柄になったことは、誰も彼もが祝福してくれる話ではなかったことは、月森や香穂子にも分かっている。
嫉妬や羨望から、陰口めいたことを叩かれていることも。それは二人の関係の変化があろうとなかろうと、普段から人に媚びることなく毅然としている月森という人間も、これまで音楽関連の実績が何もなく、突然コンクールという晴れ舞台に大抜擢された香穂子という人間も、やはりどこかで他人の反感を買ってしまう存在だと言えるのだろうから。
香穂子も、月森に近付いたのは彼の背景……所謂、優秀な音楽一家である彼の家族の事だ……から繋がっているコネクションを狙っているのだとか、実力者である月森に付きっきりで練習を見てもらうためなのだとか、いろんな種類の『月森に近付いた理由』を噂されていることを知っている。
それでも、『そうではない』ことを知っているのは他の誰でもない自分達自身であるはずなのだから、月森にはもう少し、香穂子のことを信用して欲しいのに。
「周りがそう言ってるから、月森くんも『そう』かもしれないって思うの?」
「ああ、いや、違う。……そういうことじゃない」
香穂子が怒っている理由が、蔓延する噂話を鵜呑みにした所為だと思われていることに気付いた月森が、慌てて首を横に振る。
開いた窓の枠に背中を預け、視線を自分の足元へ落とす。
「……ただ俺は、君が俺を好きになってくれる理由が、分からなくて……」
決して、優しい存在ではなかった。
初めて出逢った頃、正直彼女の存在は疎ましくもあった。
未熟な音、ヴァイオリン……音楽に対して、曖昧な姿勢。
彼女の自由な言動はいつだって月森の予測を越えていて、容赦なく振り回された。
月森は、自分に変化を要求されるのが苦手だった。
月森には月森の大切にするべき世界があって、そこに存在しないものは、月森にとって必要がなかった。
だが香穂子は、そんな月森の常識を、いとも簡単に覆すのだ。
月森が容易く捨てて来たはずのものを、いちいち丁寧に拾い上げて、大事に抱き締める。
そして、そんな必要ではないはずの存在に目を向けろと諭す。
月森の知らない世界を持っている香穂子の存在は、初めのうちはただ心を不安に蝕んでいくだけで。
無意識に退けていたから、彼女自身のことも月森はずっと、拒んでいたはずなのに。
彼女にとっての心優しい存在であるとは、お世辞にも言えなかったはずなのに。
「そう考えていると、やはり君にとって俺を好きになる要素は、ヴァイオリンだけだったんじゃないかと……」
最初は彼女にとってのヴァイオリンが、どういう意味合いを持つものなのか、月森には分からなかったけれど。
今は、彼女がどれほどヴァイオリンを愛して、大切にしているかを知っているから。
「あー……うん、なるほど。……そこが取っ掛かりだったことは間違いないんだけど」
弓を握ったまま、香穂子は考え込むように伸ばした指先でこめかみを押さえた。……月森の放つ辿々しい言葉を、香穂子は丁寧に拾い上げる。
言葉が少ない、配慮が足りない月森が、彼女にだけは本心を……こんなくだらない不安すらも、ぶつけられる理由。
「……あ、ねえねえ、月森くん。駅前通りの角にある花屋さんの脇から階段降りていく、地下の喫茶店って行ったことある?」
「……は?」
ふと思い付いたように香穂子が顔を上げて月森に尋ねる。唐突過ぎる話題転換に顔をしかめて月森が聞き返すと、香穂子は「いいからいいから」と笑った。
「……いや。ない……と思うが」
怪訝そうにしながらも、月森が生真面目に答える。何かを思い出すように空を見据えながら、香穂子が口を開く。
「あそこね、入口から何となく雰囲気よくって、ずっと行ってみたくて。この間天羽ちゃんと冬海ちゃんと思い切って入ってみたら、内装からメニューからほんっとに私好みで、大満足で」
つまりね、と香穂子は月森を振り返る。
「月森くんも、そんな感じなの」
きっかけは、確かにヴァイオリンだった。
綺麗で、上へ上へ昇っていくみたいな、賢くてほんの少し不器用で。
微かな温もりを宿す、そんな音色。
好きだと思って、奥へ踏み込んでみた。
その裏側にあるものを知りたかった。
そうして、懸命に拒む壁の隙間を縫って、手を伸ばして触れたものは。
心地のいい暖かさ。
「……月森くんの、ヴァイオリンが好きだよ」
「香穂子」
「でも、それ以上に月森くんという人が好き。多分、月森くんがヴァイオリンを弾いていなくても、月森くんが今の月森くんなら、きっと私は好きになった」
でも、と香穂子は笑う。
「……ヴァイオリンを弾いてない月森くんって、想像つかないけどね」
ヴァイオリンは、月森蓮という人間全体を構成する中の、ほんの一部。
一部である限り、決して切り離せはしないけれど。
それでも、月森という人間が、それだけで出来ているわけじゃない。
「……そうか」
どこか、安堵したように柔らかく微笑し。
月森が窓枠から身を起こし、香穂子に歩み寄った。
「君の言葉で、そう言ってもらえると、少し安心する」
「少しなんだ?」
苦笑する香穂子の頬に、そっと掌で触れる。
少しだけ、困ったように。
月森は、小さく溜息をついた。
「……人を好きになることは、いつだって不安がつきものだから」
人を好きになるということは。
ただ幸福なだけじゃなくて。
不安や、苦悩や。
切なさを、内包するものだから。
「うん。……それは、私にも分かるよ」
永遠なんてない。
無限なものもない。
いつか、終わるかもしれないから。
何かが変わってしまうかもしれないから。
時々は、不安もきちんと口にして。
大丈夫なんだと、安心したくなる。
そんな駆引きや、やりとりもまた。
恋愛というものを形成するものの一つ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.4.19】
読み返してみると、何とも自分らしい話(笑)
月森は意外に「そこで悩むか!?」ってことに悶々としそうなイメージなので(笑)香穂子も苦労しそうだな……。まあ、好きになってみればそういうところも魅力だよ!(何の慰めだ)


