ピアノの鍵盤の一つを叩きながら丁寧に音を合わせていると、遠くから聞き慣れた足音が聴こえてくるような気がした。手を止めてヴァイオリンを外し、耳を澄ませると、ぱたぱたと軽い足音が近付いてきた。……防音が施してある練習室でその音が聴こえたのは、月森が調弦を中断したことと、その足音がいつもよりも、荒々しいものだったからだ。
予測通り、軽い慌ただしい足音は月森のいる練習室の扉の前で止まり、勢いよくノックも無しに扉を開けた者がいた。振り返った月森と目が合うと、香穂子はバツが悪そうに目を反らした。元々癖が強い髪だが、この乱れ具合はどう考えても急いでここまで辿り着いた証拠だ。楽器を持ったままでバタバタするなとしょっちゅう月森から怒られているから、彼女が月森に対して負い目を感じるのは致し方ないことかも知れないが。
「……元気がないな」
早めに練習室に辿り着きたいと、怒られながらも早足になって月森の待つ練習室に彼女が駆け込んでくるのは、そんなに珍しいことじゃない。いつもなら、月森に怒られても「ヴァイオリンは揺らさないようにちゃんと注意してきたよ」と悪びれもなく言ってのける香穂子なのに、今日は明らかに様子がおかしい。
「何か、あったのか?」
「……あったような、ないような」
ぼそぼそと、俯き加減で香穂子は答える。
自分の性格上、上手な嘘は付けないと分かっているから、香穂子はあまり落ち込んでいることを隠さない。
「月森くんは、練習してていいよ。……15分放置してて」
ゆっくりと床の平らな位置にヴァイオリンケースを置き、香穂子は月森を見ないようにして、ひらりと片手を振る。
窓際に歩み寄ると、その窓を開き、そこに置いてあった椅子に腰掛けると、片肘をついて窓の外を見つめる。
……斜め後ろから見る彼女の横顔は、明らかに陰っていて。
落ち込んでいるのは分かるのに、月森は何も声をかけることができない。
きっとここにいるのが自分でなければ、彼女に有益な言葉を、何か与えることが出来るのかも知れないのに。
彼女が落ち込んでいる理由も推測出来ず。
当たり障りなく、励ますための言葉も出て来ない。
……こういう時に、つくづく自分は不器用で、人付き合いが上手くない人間だと実感してしまう。
だからと言って、このままずっと黙って彼女の横顔を盗み見ている訳にもいかず、結局月森は彼女が促すとおり、練習を続けることしかできない。
譜面台の上に置いた楽譜を、ぱらぱらとめくっていく。
今日練習する予定だった頁に辿り着き、気付いたことを楽譜に書き記すための柔らかい芯の鉛筆を置いて。
香穂子のことを気にかけながらも、月森はヴァイオリンを弾き始める。
ゆっくりと、丁寧に。
……繰り返し。
月森が同じ旋律を何度も何度も練習する間、香穂子は窓枠に頬杖をついたまま、目を閉じて月森が奏でる音に耳を澄ませている。
何も話さないし、何もしない。
ただ、フローリングの床についた爪先で、月森が奏でる旋律をなぞる。
……そうして、15分が経過。
「ハイ、ありがとうございます。復活しました」
「……え?」
突然振り返った香穂子が、そう言ってぺこんと頭を下げる。中途半端な位置で音を止めた月森が、ぽかんとして香穂子を見つめた。
「さーって、練習始めようかなあ。あ、ちょっと分からないところがあるんだけど、聞いてもいい?」
「その……香穂子?」
あまりの切り替えの早さに、戸惑う月森が声をかける。ん?と床に置いていたヴァイオリンケースを抱え上げた香穂子が、月森を見た。
「何か、落ち込んでいたんじゃないのか?」
「うん、落ち込んでたよ。でももう復活したの。月森くんのおかげで」
香穂子はにこにこと笑うが、月森は増々分からなくなる。
「香穂子……俺は、君の為に、何かが出来たつもりがない……」
むしろ、何も出来ない自分を腹立たしく思うだけだった。
気の聞いた態度、言葉。
別の誰かなら上手く与えられたかもしれない何かを、月森は何一つ与えていない。
月森がしたことは、ただ一つ。
いつものように、ヴァイオリンを弾いただけ。
そう月森が言うと。
香穂子は、ふわりと花開くように笑った。
「だからね。……それが一番、嬉しいことなんだよ」
月森は、何かを言葉で語るより。
きっとヴァイオリンで語る方が、素直に伝えることが出来る人だ。
今も、丁寧に繰り返す同じ旋律は。
香穂子を気遣うように、優しい優しい音色をしていた。
「月森くんのヴァイオリンを聴いたら、元気になるんだよ」
えへへ、と香穂子は照れたように笑う。
「……俺には、ヴァイオリンしかないけれど。それでも、君の役に立てるのなら、充分なのかもしれないな」
「ヴァイオリンしかないなんて、思ってないけど。……月森くんのヴァイオリンは充分私のことを励ましてくれてるよ」
それは、もしかしたら。
少しだけ大袈裟な、彼女の気遣いの言葉……優しい嘘なのかもしれないけれど。
彼女が曇りなく笑うから。
一つ一つの言葉を噛み締めるように、月森に間違いなく伝えてくれるから。
月森は、いつだって簡単に騙される。
……こんな不器用な自分にも。
何か彼女の為に出来ることがあるのだと。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.5.18】
ヴァイオリンがないと何もできない月森蓮(笑)
いや、何もできないなんてことは絶対ないんですけど、月森はそういう考え方をしそうだなと思います。良くも悪くもヴァイオリン馬鹿なんで(笑)


