ようやく今日の授業全てが終わって、香穂子は脱力して机に突っ伏した。そんな香穂子の様子を面白そうに眺めていた友人が、ふと何かに気づいたように香穂子の左手に視線を向けた。
「あれ? 香穂、アンタ今日は朝からブレスはめてなかったっけ?」
「え……?」
友人の言葉にきょとんとして顔を上げた香穂子は、はっと思い出して自分の左手首に目を向ける。朝から青色のビーズで出来たブレスレットをはめていたはずなのに、今目を向けたそこには、何も存在していない。
「……やっちゃった……」
先ほどとは違う脱力感で、香穂子はまた机の上に突っ伏した。慰めるように友人がそんな香穂子の頭をよしよしと撫でてくれる。
普段はほとんどアクセサリの類を身に着けることはない香穂子だが、今日は朝出がけにふとリビングのテーブルの上に置きっぱなしだった、自分の青いビーズのブレスレットが目に入った。ちょうどテレビから、今日の自分の星座のラッキーアイテムが「青いもの」という占いが耳に入り、あまり深く考えないままそれを身につけて出てきてしまったのだ。
昼休みにヴァイオリンの練習をした時に、いつもは存在しないそれが気にかかったのを覚えているから、その時点まではブレスは確実に香穂子の手首を飾っていた。お世辞にもつつましやかに過ごす、なんて芸当は難しい自分のことだから、おそらく動き回っているうちにどこかで落としてしまったのだろう。
「あーあ、結構気に入ってたのに……」
「慣れないことすると、ろくなことがないんだよね。……まあ、どこかで見つけたら拾っておいてあげるから」
落ち込む香穂子に苦笑する友人が言ってくれた。
うん、と気を取り直したように笑った香穂子は、練習室に行くために、荷物とヴァイオリンケースを握ると、溜息をついて立ち上がった。
(何かホントについてないな……)
重い足取りで練習室への廊下を歩きながら、香穂子は何度目かの溜息をつく。意気消沈気味の香穂子に、「ブレスぐらいでそんなに落ち込むなって」と友人は苦笑しながら慰めてくれたけど、多分香穂子の心を落ち込ませているのは、ブレスを落としたことだけじゃない。
……アンサンブルコンサートのことや、音楽科と普通科の分裂の問題、そして今の香穂子を一番落ち込ませていることは。
(月森くんが留学すること……)
月森は、香穂子がヴァイオリンを好きになるきっかけの音をくれた人。実力があるのは分かりきっていたことだから、留学という選択肢も、今になって思い返してみれば、別に不思議なことではない。
ただ、留学という道を自分の人生の中で縁のないものに分類していた香穂子には、月森の選択が未知の領域にあるものだっただけ。
一緒に高校生活を送って、卒業していけるものだと思い込んでいた香穂子の認識が浅かっただけなのだ。だから、寂しいと落ち込むのは香穂子の勝手な心情だ。
だが、そのことが香穂子が思う以上に自分をへこませていることも事実だ。だからこそ、友達が簡単に笑い飛ばせる程度の不運に、こんなにも引きずられてしまう。
(……駄目だ。ちゃんと浮上しないと!)
アンサンブルコンサートを成功させることが香穂子の当面の目標だ。香穂子には高度な技巧も表現力もあるわけではないから、落ち込んでいる心情は簡単に音に表れてしまう。ぐっと拳を握り締めて、香穂子が一人頷くと、少し笑いを含んだような穏やかな声が、香穂子の鼓膜へと滑り込んだ。
「何を百面相しながら歩いているんだ?」
聞き覚えのある声に、香穂子は驚いて顔を上げる。
視線の先には、香穂子と同じようにヴァイオリンケースと荷物とを抱えた、月森が立っていた。
「あっ、つ、月森くん……」
香穂子の考えていることなんて月森に分かるわけもないのだが、今の今まで自分の思考を埋め尽くしていた張本人が目の前に現れたことで、香穂子は妙に焦ってしまう。そんな香穂子を不思議そうに月森が見つめた。
「……どうかしたのか?」
「う、ううん! ちょっとぼうっとしてたから……」
「ああ、そんな感じだったな」
香穂子の言葉に、納得したように月森が微笑む。納得されるのもどうなのかなあと内心嘆きつつ、香穂子は気を取り直したように笑顔で月森を見上げた。
「月森くんも、今から練習?」
「ああ。……予約の時間もあるから後から探そうと思っていたんだが、練習室に入る前に会えてよかった」
「え……」
戸惑う香穂子の目の前で、月森はふとジャケットのポケットに手を入れる。「これは君のだろうか」と香穂子の目の前に、畳んだハンカチを差し出した。
月森の長い指が、掌の上のハンカチをそっと開いていく。そうして香穂子に示されたのは、ばらばらになったたくさんの青いビーズだった。
……そう、あのブレスレットを形作っていたものと同じ、青いビーズ。
「あっ、これ……!」
「……昼休みに、屋上で練習をしていただろう。あの場に俺もいたんだ。……俺も譜読みをしていたので、あえて君には声をかけなかったが」
屋上の一段高くなった場所で、月森は譜読みをしていた。その途中で香穂子が現れ、ベンチ付近で練習を始めたことには気づいていたが、香穂子も練習に集中していたようなので、あえて声はかけなかった。
そして予鈴が鳴り、昼休みが終わる頃、香穂子は「そう言えば、移動教室だったんだ!」と叫び、慌ててヴァイオリンを片付けると、あっという間に屋上を去っていった。相変わらず落ち着きがないなと苦笑しながら、月森も次の授業のため教室へ戻ろうと屋上を後にする際、ドアの付近にきらきらと太陽の光を反射するものが散らばっていることに気付いたのだ。しゃがんでよく見てみると、それはたくさんの青いビーズだった。もし、月森がここに来る前から落ちていたのなら、きっと月森は屋上に足を踏み入れた際に、このビーズの存在に気付いただろう。そして、月森以外には香穂子しかこの屋上には現れなかったのだから、必然的にこれの持ち主は香穂子だということになる。
「ばらばらになっているし、あまり必要なものではなかったのかもしれないが、もし君が探していたらいけないと思って」
「……授業だったのに、拾ってくれたの……?」
月森の手から、ハンカチごとそのばらばらのビーズを受け取って。
じいっとそのたくさんのビーズに見入ったまま、香穂子が尋ねた。
「授業が始まるまでのわずかな時間しか拾っていないから、心配はしなくていい。……ただ、元が幾つくらいあるものかが分からなかったから、全部は拾えていないかもしれないが」
申し訳なさそうにそう告げた月森に、香穂子はぎゅっとハンカチごとそのビーズを握り締めて、何度も何度も首を横に振る。
「……いいの」
大切にそのビーズを抱きしめて、香穂子はとても嬉しそうに月森に笑いかけた。
「ありがとう、月森くん」
「……日野」
「……本当にありがとう」
香穂子が進む道の先には、今は困難しか見えていなくて。
辛いこと、悲しいこと……寂しいことだけが、自分の行く先で待っているような気がしていた。
ばらばらに散らばったビーズは、今の香穂子の心みたいだ。
懸命に繋いでいた細い線が簡単に切れてしまって、何とか形作っていたいろんな感情をバラバラにして、修復不可能にする。
一度切れてしまった糸は、二度と同じ配列で香穂子の想いを繋ぐことはない。
……だが、その感情をもう一度拾い集めてくれる人がいる。
失うものがあるかもしれない。
消えることのない傷を負ってしまうことも。
だけど、もう一度。……何度でも。
自分だけではない誰かの手に支えられて、香穂子は自分の想いを繋いでいくのだ。
(……だから、それを月森くんが拾い集めてくれたことが嬉しい)
他の誰でもなく、月森が。
マイナス面へ傾いて、ばらばらになりそうだった香穂子の想いを、見捨てずに拾い上げてくれたことが。
二度と、同じ形に戻ることはなくても。
拾い上げて、集めてくれた掌の温もりは、きっと。
ばらばらになったビーズの中に、きっと宿っているはずだから。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.8.8】
ちょっとしたことがきっかけでどーんと落ち込むことはありますよね。そういう時に浮上するきっかけも案外ちっちゃなことかもです。月森は、落とし物とかを律儀に拾って届けるタイプかと思うんですが、どうだろう。「俺には関係ない」とスルーパターンもありか?


