時間は正午を少し過ぎた頃で、昼休みなのか、辺りは濃い色のスーツを着込んだビジネスマンやOLでごった返していた。
香穂子は決して小柄な方ではないが、末っ子特有ののんびりさ故なのだろうか、一人で歩いていると自分の思考にこもりがちになって、人込みの中ではついその人の波に呑まれてしまう。上手くすり抜けられないし、どうにも人の気配に酔いがちで、昔から香穂子はそんな人込みの中が得意ではなかった。
何度目か、足早に道を行く周囲の人たちの肩や腕にぶつかってしまい、そのたびに香穂子は「ごめんなさい」と頭を下げた。何とか一番混雑していた場所を抜け切って、人が少なくなったビルの谷間で、香穂子は思わず安堵の溜息をついて、高層ビルに切り取られた、狭い青空を見上げた。
(……そういえば、月森くんも人込みは苦手だったっけ)
気を抜いた途端、そんなことをふと思い出した。
時折、駅前通りに楽譜や弦などを買いに行く際、少しだけ不機嫌そうに「人込みは苦手なんだ」と零していた声が、香穂子の脳裏に鮮明に蘇る。
(……ああ、まただ)
人込みにまつわる記憶なんて、それこそいっぱいあるはずなのに、よりによって真っ先に彼との想い出が浮かんでくるなんて。
自嘲して、呆れて苦笑いを浮かべながら、香穂子はまた目的地に向かって歩き出した。
月森と別れたのはもう4年近く前のことだ。
ヴァイオリンとともに生きていくしかない彼のことは、香穂子なりに理解をしていたつもりだったから、留学を理由に別れを切り出された時も、特に驚きはしなかった。香穂子なりにその別れを納得して、受け入れたつもりだった。
彼を好きな気持ちに変わりはなかったから、そんなに簡単には忘れられないであろうことも、予感はしていた。会えないことで、その寂しさで、徐々にこの気持ちが綺麗な想い出になればいいと思っていた。
だが、どんなに時間が経っても、月森を想う気持ちが色あせない。
さすがに二年も経つ頃には、いい加減に忘れなければと、月森への想いをなかったことにしようと努力してみたこともあったが、どうしても忘れることができなかった。
それはきっと、月森を好きになったきっかけが、ヴァイオリンにあったからなのだと香穂子は思う。ヴァイオリンを好きな気持ちと、月森を好きな気持ちは、もちろん違う場所にある。それでも香穂子はこの二つの気持ちを同時に育ててきたから、ヴァイオリンを好きな気持ちを思い返すと、月森への想いも同時に色鮮やかに蘇ってしまうのだろう。
忘れなければならない気持ちなのに、忘れられなくて。
一番辛かった頃に香穂子を支えてくれたのは、ヴァイオリンと。
そして、月森を忘れられない香穂子を、そのままでいいと認めてくれた、たくさんの友人たちだ。
日常のほんの些細な出来事に、いつだって不意に月森との想い出が浮かんでくる。
それは、ふと青空を見上げたり。
横断歩道を渡ったり。
ビルの谷間で、ふと人込みの中を歩いたりする時に。
そんなふうに、当たり前の日常の中に自然に彼の面影が浮かぶほどに。
二人で過ごしていたあの頃の想い出は、とても色鮮やかで濃密なものだったのだ。
目的地のスタジオが入っているビルの入り口で、香穂子は見知った顔を見つける。
向こうも香穂子に気がついて、笑って片手を振ってくれた。
(忘れることが辛いなら、忘れたいと思えるようになるまで、抱えていればいいんだよ)
忘れられない人がいると、泣いた香穂子に、諭すような柔らかな口調で言い聞かせてくれた人。
(だって、好きでいることより忘れることの方が辛いから、そんなに苦しんでるんでしょう?)
何でわざわざ辛い方を選んでるの?と至極常識的なことだと言いたげに、月森のことを知らない新しい友人は、不思議そうに小さく首を傾げた。
寂しそうな香穂子を見て、もう忘れた方がいいと言ってくれる昔からの友人たちとは、真逆の答えを、その子だけが香穂子に言ってくれた。
そうして、香穂子は確かに楽になったのだ。
ビルの谷間で、ふと空を見上げ。
人込みの中でほんの少しの寂しさと、そしてたくさんの愛おしさとともに、彼の面影を脳裏に映すことに罪悪感を覚えなくなったのは。
きっと、香穂子の未練を許してくれた彼女のおかげだから。
「お疲れ、灯」
香穂子が声をかけると、細いフレームの眼鏡の奥の真っ直ぐな眼差が香穂子を見つめた。
「お疲れ。……このスタジオ初めてでしょ? ここまで迷わなかった?」
「うん」
香穂子が頷くと、小さく微笑みながら踵を返す友人は、ビルの入り口の扉を開けた。
……その、落とすような小さな微笑みに、また香穂子は。
あまり笑顔を見せることはなかったけれど、それでも、たまに香穂子にだけは見せてくれたあの微かな彼の笑顔を思い出して。
少しだけ、胸を痛めて。
そうして少しだけ、愛おしいという感情を思い出した。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.8.29】
無印というよりはオフライン本「キラキラの街」がベースのため、余計な人が出ています(笑)
灯を初めて登場させたときには、心の奥底が読めない不思議ちゃん、というイメージで作っていたつもりなんですが、書き進めるうちに人当たりのいい月森、というイメージになってきました(笑)
月森よりは何百倍も器用に生きる人ですけどね(笑)


