Brand-new

月森×日野

 玄関から一歩外へ出て、そこで待っている月森に香穂子が視線を向けると、月森は唇を引き結んだまま、立ち尽くして空を仰いでいた。
 それは取り立てて何と言うこともない光景ではあったのだが、空を見上げる月森の横顔がとても穏やかで、そして子どものように澄んだ眼差をしていたからだろうか、何故か香穂子はそんな彼に声がかけられなかった。
 そっと玄関のドアを閉じ、できるだけ彼を取り巻くその空気が壊れないようにと、細心の注意を払って音がしないように門扉を押し開いたつもりだったが、さすがに少しの音も立てずにというのは不可能で、香穂子の手の動きによって触れ合った門扉の金属音に気付いた月森が、ふと瞬きをして香穂子の方を振り返る。
「……おはよう、香穂子」
 香穂子の姿を目に止めると、ふわりと優しく微笑んで、月森がそう言ってくれた。
「おはよう。……ごめんね、待たせちゃって」
 問題なく動き出した彼を取り巻く時間の流れに、香穂子はほっと安堵して。
 そして、あの穏やかな風景を動かしてしまったことに少しだけ後悔をする。

 ……まるで一枚の絵の中の風景のように。
 とても綺麗なワンシーンだったのに。


「……何か見えたの?」
 学校へ道を二人並んで歩み始め、しばらく進んだところで香穂子が尋ねた。「え?」と訝しげに尋ね返す月森に、香穂子は人差し指で空を指し示した。
「私を待っている間ずっと、空を見てたでしょ? 何か変わったものでも見えたのかと思って」
 香穂子の言葉に、しばし黙り込んだ月森は、ややして「……ああ」と溜息をつくように小さな声で呟いた。緩慢な瞬きをして、先ほどと同じように、高い秋の空を見上げた。
「特に変わったことがあったわけじゃない。……ただ、今日はとても綺麗な色の空だ、と思って」
 月森に倣うように、香穂子も視線を空へと向けてみる。
 確かに、秋晴れの雲の少ない空は、綺麗な澄んだ色をしていた。
「ホントに、綺麗だねえ」
 感心したように香穂子が呟く。
 そうして、二人で空を見上げたまま数歩歩いて。
 それから、香穂子は怪訝そうに眉間に皺を寄せる。
「……って、それだけ?」
「そうだが」
 驚いたような香穂子の問いに、月森は真顔で返答した。目を丸くして自分を凝視している香穂子に、月森は小さく苦笑する。
「『らしくない』とでも、言いたげだな」
「……だって」
 『らしい』とは言えないよね?と困惑気味の香穂子が、上目づかいに月森を見て、ぼそぼそと呟く。
 そんな香穂子に、月森は一旦視線を伏せ。
 それから、また秋晴れの空に視線を向ける。
「……そうだな。以前の俺ならばきっと、そんなささやかな毎日の変化に目を向けるような余裕はなかっただろう……」

 それは、良くも悪くも香穂子の影響だ。
 空を見ることだけじゃなくても、自分を取り巻く世界の小さな小さな変化に、ふとした拍子に気付くことができるようになったこと。
 以前の自分には、ヴァイオリンと音楽が全てで。
 それ以外の世界の様子も移ろいも、必要なものじゃなくて。
 それが、一概に間違っていたとは言いたくない。月森は月森の価値観があって、何かを怠けていたつもりも、いい加減にしていたつもりもないのだから。
 だけど、香穂子を迎えに来て、彼女が支度を済ませる間、何気なく眺めていた空が、昨日とは違う色をしていることに気付いたこと。
 同じようにそこにある空が、一瞬たりとて同じものではなく、日々移ろい変化していくものだと月森が知ったこと。
 そのことにこそ、きっと 意味がある。
 ヴァイオリンと音楽に日常をささげることが当たり前で、それを繰り返して自分のペースを守っていくことだけに終始していた、彼女と出逢う前の自分とは違う自分が今ここにあることを。
 同じように毎日を生きている自分が、決して昨日と同じものではないことを。
 香穂子に出逢い、彼女の音と存在とに触れ、確かに変化している今の自分が、その変化を正しく自覚していることこそが、何よりも重要なことだ。

「……空も街も私たちも。日々、新しく生まれ変わってるってところかな?」
 月森の言葉を、自分の中で噛み砕いて呑みこんで。
 自分なりの言葉に言い換えて、香穂子がそんなことを呟く。
「そこまで大げさなことを言うつもりはないが」
 苦笑する月森は、もう一度昨日とは違う色をした澄んだ空を見上げて。
 そして、穏やかに微笑む。

「それでも、昨日と全く同じ世界は、今日ここには存在しないんだ」


 それは、きっとささやかな変化。
 誰も気付くことのない、蝶の羽の一振りのような。
 だけど、それがいつか手の届かないどこか遠くで水面を波立たせるかもしれない。
 そんなふうに、目に見えない小さな変化は、今日も世界中の片隅でこっそりと息づいているのだろう。

 同じ出来事の繰り返しのように思える日常も、本当は昨日までとは違う、真新しい世界。
 瞬きの時間にも、きっと世界は絶えず変化している。……だから。

 二人で過ごすこの穏やかで幸せな瞬間も、決して当たり前のことだと思わずに。

 本当は、とても大切な瞬間なんだと、気付くことが出来るんだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.10.17】

日常の些細なことが大切ですよね。……これを書いている時期には漠然と思っていたことですが、その後色々な経験をして、改めて考えました。
ちなみにこのタイトル、某バンドのファンである私は真っ先にこの創作とは全く違う雰囲気の曲を思い浮かべるんですが(笑)、ここではちゃんとアニメのOPの曲を思い浮かべておりました。

Page Top