別に君でなくていい

月森くんと日野さん、+森さん

「ああもう、ムカつく……っ」
 握っていた弓をへし折りそうな勢いで「ムカつく」と吐き捨てる香穂子に、伴奏のために練習室に付き合ってくれた森が苦笑する。
 近くコンクールに参加する香穂子の伴奏を数週間前に引き受けたものの、肝心の香穂子自身がまだ課題曲を弾きこなすことが出来ていなかったため、二人で練習に入るのはこれで三回目だ。どちらかと言えばのんびり屋の印象を持っていた香穂子の悪態に、初日はいちいち驚いていた森だが、三回目ともなれば理由も分かっているだけに慣れてくる。
「相変わらず、厳しそうだね。月森くん」
 苦笑したまま、落ち着いた声音で森がそう声を掛けると、一瞬で我に返った香穂子が頬を赤く染めて森を振り返る。「ご、ごめんね、口が悪くて」と恐縮する香穂子に、森は軽く首を横に振った。
「普段の態度がアレだからね。練習でも容赦ないんだろうなって想像つくよ」
「そうなんだよね。下手なのは私だって十分に分かってるんだから、あんなにぽんぽん怒んなくたっていいのに」
 むう、と頬を膨らませる香穂子に、森はふと顎の付近に指先を当て、何かを考え込むように空を睨む。
 月森のクラスメイトでもある森には、香穂子の指導役を引き受けている月森の遠慮のない言動も容易に想像がつく。いちいち正論を真正面から香穂子にぶつけて、彼女の感情を逆なでしているのだろう。言いたいことをオブラートに包んで、遠回しに、などという芸当は、到底できるような性質ではないし。
「ねえ、日野ちゃん。どうしても月森くんの指導が気に障るって言うんなら、友達のヴァイオリン専攻の子、紹介してあげようか? 月森くんほどの実力はないかもしれないけど、それなりに弾ける子だし、留学準備してる彼よりは時間的な余裕もあるから、もっとたくさん練習時間取れると思うけど。……別に、どうしても月森くんじゃなきゃダメってわけじゃないんでしょう?」
 森の言葉に、香穂子が目を丸くして動きを止める。全く想定外の意見、という顔だった。
「……えっと。そうだね、月森くん以外の人に教えてもらうって手もあるんだ……」
 森の指摘はもっともだった。
 別に、月森でなくてもいい。
 もちろん、月森ほどの実力者にはなかなかお目にかかれるものではないが、音楽科に在籍している生徒は、間違いなく香穂子よりは実力を持った人達であろうし。
 考え込む香穂子の横顔を見つめ、少し首を傾げるようにして森が香穂子の答えを待つ。
 しばしの逡巡の後、香穂子は苦笑しながら、「……やっぱり、いいや」と呟く。
 特にその返事に対しての感想は述べず、何か一人分かった風の森が、「そう?」と微笑んで、視線を伏せた。


 別に月森でなくたっていい。実際、彼に教えてもらうまでの間は、先輩の王崎に指導を受けていたわけだし。
 だが、月森に教えを乞うようになってから、香穂子の技術が格段に伸びてきたのは間違いがない。理由はただ一つ、月森が妥協をしないからだ。
 王崎も、きちんと技術的な部分の指導をしてくれてはいたのだが、彼の場合はまず先に「音楽を楽しむこと」という大前提があり、多少香穂子が間違えようが、音をすっ飛ばそうが、あまり気にしていないように見えた。
 そんな王崎との練習は、楽しかったし、今のようにいちいち言動に腹を立てることもなかったが、成長の度合いはとてもスローペースだったように思える。
 月森との練習は、どことなく喧嘩腰になる。しかも、月森の方は喧嘩を売っているつもりはなく、ただ真摯に香穂子のレベルを上げようとしているだけで、香穂子がいくら彼の言動にカチンとこようが、お構いなしだ。何よりも腹が立つのが、月森の指摘がいちいち的を射ていることである。
 自分で十分に分かっていることであるから、改めて指摘されると余計に神経を逆なでされる。だが、その怒りがまた、「意地でも次の練習の時には弾けるようになってやる!」と、香穂子の向上心に火をつける。……ある意味、非常に香穂子に合った練習ではあるのだ。
(悪気がないのは分かってるし……)
 香穂子もいつまでも自分の中に感情を溜め込んでおける性格ではないから、本当に月森の容赦ない指摘に腹が立った時には、ついつい感情を表に出してしまう。そんな時には、月森が心底驚いたような表情をするから、彼が嫌味や意地悪で言っているわけではないということが、香穂子にも分かってしまう。
「……何で、月森くんなのかなあ……」
 どんなに辛辣な言葉に腹を立てても、容赦のない指導に苛立ちを感じても、不思議と香穂子は、月森との練習を嫌だとは思わない。そりゃ、あまりに言われすぎるものだから、ついつい愚痴ってみたくはなるものの、だからといって、森が言うように月森との練習を辞めてしまおうとまでは思えないのだ。
(だって、憧れの音を持つ人だ)
 香穂子が、あんなふうに弾いてみたいと初めて思えたヴァイオリンの音色を持つ人。
 月森の音を聴かなかったら、今の香穂子はいないのかもしれない。
 ……だから。
(だけど)
 ヴァイオリンの音色は、それだけでとても好きなのに。
 ……他のヴァイオリンの音色だって、本当はよかったはずなのに。
 どうして、月森の音に、あんなに心惹かれたんだろう。

「日野、今帰りなのか?」
 考えに耽っていたら、背後から声を掛けられた。
 振り返れば、夕日の色に染まる月森が、ヴァイオリンケースを抱えて立っている。
「……あ、うん。今まで森さんと、課題曲の練習してて」
「そうか。……先日引っかかっていたところは、きちんと弾けるようになったのか? 君があそこでつまずいていたら、伴奏が入るタイミングを見失うだろう?」
「ちゃんと弾けるようになってから行きました! 月森くんの指摘通りに、ばっちりと!」
 ……若干の誇張はあるけれど、一応ピアノが迷わないくらいに引っかからない程度になってから練習に臨んだので、香穂子は大声でそう月森に言い返す。「上手くいったのか」くらいで言葉を止めていてくれたら、もう少し素直に受け答えが出来るのに、と少し理不尽な怒りを心の中で月森にぶつけながら。
「……そうか」
 だけど、香穂子の言葉に。
 ほんの少しの微笑みを浮かべた月森が、穏やかにそう呟くから。
 何だか香穂子は、どうしていいのか分からなくなる。

「……少し遅い時間だから、ここで会ったついでに送っていく」
「え、いいよ。今日は別に月森くんに練習見てもらってたわけじゃないし、ここで会ってなかったら一人で帰ってるわけだし」
「それでも、会ってしまったのだから」
 遠慮しようとする香穂子に、苦笑する月森が肩を並べて歩き出す。
 これだから困る、と香穂子は心の中で独白する。
 ……厳しいだけなら。
 辛辣なだけなら、いっそ切り捨ててしまえるのに。
 時々、本当に丁寧に拾わないと見落としてしまうくらいの。
 不器用で小さな優しさを見せてくれるから。
 どんなに腹が立っても、どんなに悔しくても。
 結局香穂子は、彼を許してしまうのだ。


 本当はきっと。
 別に君でなくていい。
 ヴァイオリンを教えてもらう人も。
 目指す道の先にいる人も。

 だけど、それが君であるからこそ。
 諦めず、迷わずに。
 私はこの道を、まっすぐに。
 君へと向かって、歩いていけるのだろう。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:11.5.22】

無自覚2名と何か分かっちゃってる森さん……と、ブログ掲載時に書いてましたけど、そのまんまですね!(笑)天羽ちゃんや森さんは周りをよく見ていそうですよね。よって無自覚な二人を書くときには天羽ちゃんたちを登場させると、ちょっと面白いことになると思う(笑)

Page Top