彼女の隣で……その一番近くで聴いてみたくて。
一大決心した選択に、後悔なんてしていないけれど。
本当は心のどこか深い場所で、どうしてそこまでしなければならなかったのかと、自問自答を繰り返している。
自分の運命の全てを変えた彼女と、運良く同じクラスになれて。
抜けていたパズルの欠片を嵌め込んでいく作業みたいに、加地は彼女のことを知っていく。
小さな小さな欠片が寄り集まって、欠けた場所を埋めて。
加地の中にある『日野香穂子』という存在の形を、完全なものに作り上げていく。
正直なことを言えば、予想していた姿とは大違いだった。
『あの』旋律を生み出す女の子だから、どんなに偉大な圧倒的なオーラの持ち主なんだろうと思っていたのに、実際の香穂子は、加地が遠目に見て、空想の元に作り上げていた『ヴァイオリニスト』像とは全く違っていて。
どこにでも存在していそうな、到って平凡な少女だった。
ただ、とても素直にヴァイオリンの音色を愛している女の子。
沢山の事を、その小さな手の中に抱え込んで、背負いながら。
懸命に生きている、真直ぐな女の子。
その理想と現実の香穂子のギャップは、決して加地を落胆させるものではなかった。
それよりも、むしろ心地いい。
彼女は加地と同じ地面に立って、同じ目線から物事を見てくれる。
加地が憧れ続けた『あの』音色を生み出す存在なのに。
香穂子はいつだって、加地と対等でいてくれる。
……だからこそ、逆に。
加地は余計に、寂しさを感じてしまうのかもしれないけれど。
「僕は、本当は足手纏いなんじゃないかな」
謙遜だと思えればいいのだけれど、聴覚にだけは周りに誇れる自信を持っている自分だから、もっと残酷に客観的な事実として、実感出来る。
自分のヴィオラの音色が、どうしても彼女のいる場所へは届かないこと。
今、こうして同じ場所で音楽を奏でられるのは、アンサンブルという形式上、彼女が自分のいる場所まで降りてきてくれているからで。
本当は、もっと遠い、高い場所まで行けるはずの彼女のヴァイオリンを、自分こそが足留めしてしまっていることが、加地には理解出来てしまう。
「僕は、君と一緒に音楽をやっていてはいけないんじゃないのかな……」
彼女の音色に寄り添うヴィオラが自分の音色であることが、彼女に申し訳なくて。
……でも、それ以上に幸せで。
ずっと、こうして彼女が同じ場所に居てくれないかと願ってしまうから。
余計に自分の胸を痛ませる罪悪感。
続いていた旋律が途切れる。
ぽつりと呟いた加地の言葉を、躊躇いなく拾い上げて、香穂子は振り返る。
大きな目をぱちりと一つ瞬かせ、加地を正面から真直ぐに見つめて、香穂子は不思議そうに首を傾げた。
「……どうして?」
「僕には、日野さんのような才能がないから」
おそらく彼女の気持ちには何の含みも、駆引きもない。
だからこそ、加地が普段他の人間に対して振る舞うように、遠回りな言い方は出来ない。
そんなふうに、少しだけ歪んでしまっている加地の心を、真直ぐに修正してしまうのも彼女の魅力の一つだなあなんて思いながら、加地は苦笑して答える。
素直な彼女が間違えないように。
加地自身にとっては痛い言葉を、……はっきりと。
「……僕は、月森や土浦のように、君と同じ目線には立てないから」
透明で、そしてどこまでも高く昇っていくような音色。
あんな美しい旋律は、どうやってもこの手からは生まれてこない。
「加地くん」
加地を呼び、そして言える言葉を探して、香穂子は眉をひそめて黙り込む。
それは彼女の中で、加地に与えるための言葉を懸命に生み出していく作業。
やがて香穂子は、傍らのベンチの上に置いたヴァイオリンケースの中に自分のヴァイオリンをそっと仕舞うと、改めて加地の目の前に立ち、真直ぐに加地を見つめた。
「……才能って、何?」
「え?」
「加地くんが、私のヴァイオリンを好きでいてくれるのは分かる。……だけど、才能とか。月森くんや土浦くんと同じ目線っていうのは……私にはよく分からない」
月森や土浦や、学内コンクールに参加していた、香穂子が知る『音楽』に一生懸命に心を傾ける人達。
香穂子の周りにいる、そんな人達は、いつも遠い場所を見つめていて、奏でる音もいつも上を見ている。自分がいる場所のその先へ向かおうとする。
だから、側にいる香穂子も前を見る。
昨日よりも、今日よりも。明日はもっと先に進むことができればいいと思う。
……だけど、やはり彼らと自分とでは、違うのだと香穂子は思う。
「だって私は、将来のことなんて考えたことがないよ」
それは、突然自分の目の前に舞い降りた奇跡だった。数カ月前まで、香穂子の人生の選択肢の中に、ヴァイオリンなんて存在していなかったのだ。
ヴァイオリンを弾くことは楽しいから、もっと上手くなれたら、もっと沢山の曲が弾けるようになったら、もっと沢山の人に聴いてもらえたら。そんなふうに、願いも確かに広がっていくのだけれど。
「私はただ、ヴァイオリンを弾くことが楽しいだけなんだ」
始まりは一つの偶然。
音楽の妖精を、目にすることができた。たったそれだけの奇跡。
「そんな私を、月森くん達と同列に扱ったりしたらそれこそ皆に失礼だよ」
そうして、香穂子は屈託なく笑う。
そんな香穂子に、加地は微かに目を見開いた。
「ねえ、加地くん。私、加地くんが言ってくれる言葉を疑ったりしてるわけじゃないんだよ。自分じゃ分からないけど、加地くんが言うなら、私のヴァイオリンの中に加地くんが好きだって言ってくれる『何か』、あるのかもしれないし」
そして加地が言うように、加地のヴィオラの中にその『何か』は存在しないのかもしれない。
……存在するかしないかはあくまで加地自身の評価でしかなく、自分の中に『何か』があるかどうかも分からない香穂子には、その正誤は判断の仕様もないけれど。
「でも私は、加地くんのヴィオラが好きだよ」
ふわりと笑って。
嘘をつかない、彼女の柔らかな声がそう告げる。
「華やかで、明るくて、親しみやすくて。一緒に弾いてると、とても楽しいの。加地くんの華やかさが私にも伝わってきて、こんな私まで鮮やかな色に彩られるみたいで」
少しだけ困ったような複雑な色を、その笑顔に混ぜて。
香穂子は加地に尋ねる。
「……それだけじゃ、いけないの?」
僕は、何を願っていたんだろう。
学内コンクールが終わって、公園に練習に来なくなってしまうかもしれない彼女のヴァイオリンを、聴けなくなることが嫌で。
転校までして、彼女の音色を求め、そうしてここまで来たけれど。
……本当は、知っていた。
転校なんてしなくてもよかったこと。
ただ、彼女のヴァイオリンだけを求めているのなら、公園で一言、声をかけてみるだけで良かったこと。
何故なら彼女はきっと加地を拒まなかった。
誰も彼もに、隔たりなく語りかける彼女のヴァイオリンの音色が、その事実を初めから歌っていた。
見知らぬただの1ファンであっても。
きっと彼女は、惜し気もなくあのヴァイオリンを聴かせてくれただろう。
だけど自分は、それだけでは足りないことを最初から知っていた。
あの、どうしようもなく焦がれてしまう音色を。
彼女が『素直に』奏でる人だということを知っていたから。
……いつしか、『音色』だけでは我慢が効かなくなることに、最初から気付いていた。
「……君が、それでいいと言ってくれるなら」
俗っぽい、あざとく人に媚びるような音色。
打算を含んで作り上げられた、どうしても高くは伸びていかない音色。
そう加地自身が評価してきた拙い音色を、それでも君が必要としてくれるなら。
……好きだと、本心から言ってくれるのなら。
「僕はそれでいいんだ。君の音に寄り添えるなら、それは僕にとって、言葉に出来ないくらいに幸せなことだから」
まだ、不安そうに加地を見つめる香穂子の視線。
気遣いと、そして親しみに溢れた、暖かな眼差。
……それは、ただの演奏者と観客のままでいては、きっと手に入ることがなかったもの。
だから、あの時の自分の決断力とその決断に踏み切らせた彼女という存在があることに、加地は感謝する。
「そう。……僕は今、本当に幸せなんだ……」
僕が願ったもの。
それは、彼女のヴァイオリンをいつも側で聴き続けること。
だけど、本当は知っていた。
……理解っていた。
僕が焦がれてやまないあのヴァイオリンの音色を素直に奏でる君だから。
……君の全てが溶け込んでいるヴァイオリンの音色に。
君自身を形作るあの音色に、どうしようもなく惹かれた僕だから。
いつか、ヴァイオリンだけではなく。
君自身を愛さずにはいられなくなることを。
……最初から知っていた。
だから、確かめたかった。
休日に、公園でヴァイオリンを弾く姿だけでなく、高校生として日常を生きる君の姿を。
……決して、手の届かない遠い場所で生きているのではなくて。
自分と同じように、悩み、痛み、苦しんで。
それでも不器用ながら、真直ぐに、懸命に生きる姿を。
そうして小さな彼女の欠片を集めて、胸の中で形作る。
自分にとっての愛おしいものに、育てていく。
本当に心から願ったのは、たった一つだけのこと。
どうしようもなく心惹かれた音色。それを奏でる存在。
世界の広さから比較すれば、とても小さいと言えるそんな存在を。
僕は、これ以上にないくらいに。
深く、深く愛したかったんだ。
あとがきという名の言い訳 【加筆修正:2010.6】
実は、加地がセカンドになるのは渡瀬的には意外でした(笑)ヘタレ万歳!(そゆこと?)渡瀬の中で、このCPは月日と正反対の心理関係が成立するので、そのせいかなとも思ったり。
この作品の加地がいまいち加地っぽくないなと思ったら、「ふふっ」って笑ってない(そこ?)


