元々の視力が悪いとは言っても、それを矯正する術はあったので、問題はそういうことじゃない。
だが確かに、自分はまだ本当の世界を知らなかったのだ。
本当の、世界の姿を。
そう。……彼女に出逢うまで。
「……だから、何故そこで引っかかるんだ?」
若干の苛立ちを込めて呟き、月森は指先で額を押さえる。
未熟な彼女が演奏につまづくのは、ある意味仕方がないことなのかもしれないが、そのつまづく場所が月森には理解不能だ。何故こんな簡単な箇所で……と頭を抱える。その反面、ここはなかなか難しいだろうと思えるところを案外さらっと弾きこなしたりしてしまうので、日野香穂子という奏者の実力は月森には計り難い。
「何ででしょーかね……?」
月森の苛立ちに聡い香穂子も、どこかおどおどとした口調で呟き上目遣いに月森を見る。月森だって、自分の疑問の答えが香穂子から出てくるとは思わない。彼女がこの疑問に正確に答えられるようなら、自分という指導者は彼女には必要がないだろう。
この、月森が「こう」だとイメージするものにかっちり当てはまってしまわない、イレギュラーな日野香穂子というヴァイオリン奏者は、月森に苛立ちを抱かせるのと同時に、興味も抱かせるのだから厄介だ。イメージ通りに重ならない。どうしてもブレる。だからこそ、彼女の姿がどこに嵌まり込むのかを見てみたい。……これまで、他の誰かに抱かなかった興味を彼女に持つのは、そういう理由なのだと月森は解釈している。
「もう一度、同じところを弾いてみてくれ」
溜息混じりに月森が促すと、香穂子は頷いて、それから少し前の部分から同じフレーズを繰り返す。そして先ほどと全く同じ部分で、香穂子のヴァイオリンが本来奏でるべき位置から半音上がった奇怪な音を紡ぎ出した。
「……ああああああー」
半ば諦めたような調子で、香穂子が顔をしかめて弓を弦から離した。その全身を頭のてっぺんからつま先までまじまじと眺め、月森はわずかに眉根を寄せる。
「……きちんと曲調は頭に入っているんだろう?」
「うん。ちゃんとCDで何回も聴いて予習してきたよ」
驚くことに、ヴァイオリン奏者でありながら香穂子は楽譜を読むことがあまり得意ではないと言う。耳からと目から、両方の情報を取り入れて、上手く自分の中に消化させないと、彼女の演奏は上手くいかない。
「……ちょうど転調部分に差し掛かるから、余計な力が入るのかもしれないな……」
ここぞ、という時になると、香穂子が妙な気合いを入れてしまい、入れなくてもいい力を腕や足に込めてしまう癖を月森は知っていた。曲調の予測が出来るのならば、尚更だ。香穂子は元々のヴァイオリンを弾く姿勢は意外に綺麗なので、つい見落としがちになってしまうのだが。
「あまり気負わず、力を抜いて転調に入った方がいい。転調だと身構えるから、余計な力が加わるんだ」
「ち、力を抜く……」
何故か絶望的な表情をする香穂子が、呆然と呟く。
自分で力を入れている意識がないので、どう力を抜いていいのかが分からないのだろう。……これでは逆効果だな、と月森は考える。力を抜こうと意識するあまり、また転調部分で余計な力が入るに違いない。
「……そうだな」
月森は、自分の中にある数少ないボキャブラリーをひっくり返して、懸命に考える。彼女に理解できる、分かりやすい言葉。
今まで、誰かに自分の想いを伝えたいと思うことがなかったから、磨かずに放置してきた力を、自分なりに最大限に発揮する。
「……料理の、皿だけを取り換えるような」
「料理の、お皿だけ……」
月森の言葉を、香穂子が真面目な顔で繰り返す。……あまりにも稚拙だったかと内心恥じ入ってる月森の目の前で、香穂子がぐ、と握り拳を握って、「……やってみる」と神妙な表情で呟いた。
再び演奏を始める香穂子を見つめながら、月森はここ数か月、彼女に出逢ってからの自分自身の変化を思い返す。
(……君に出逢うまでは、変わろうなんて思ったことは一度もなかったのに)
香穂子に出逢うまで、月森は自分自身を変えることなんて、考えたことがなかった。
不器用だという自覚はあったし、他人に対して言葉が足りないのも分かっていたつもりだった。だが、たとえ他人に理解されなかったとしても、伝わらなかったとしても、それで困ることはなかったのだから。
だが、香穂子に出逢ってから。
確かに、自分は変わったのだと思う。変わりたいと思ったわけではないのに。
……今までの自分を、決して不満に思っていたわけではないのに。
彼女という存在に関わることで、容赦なく自分は染め変えられていく。
(……こんな世界が、あるんだ)
自分が知らない世界が、自分の知らない音が、この世にはまだたくさんあるのだという……そんな、当たり前のことを、香穂子の存在が月森に知らしめてくれた。
こんなふうに。……暖かで、穏やかな。
優しい、世界。
気付いたら、香穂子のヴァイオリンが、先ほどまでどうしても弾くことが出来なかったフレーズを、綺麗に弾き切っていた。
「月森くん、出来たよ!」
「ああ」
「何かコツつかめた気がする! 忘れないうちに、もう一度弾いておくね」
嬉しそうにはしゃぐ香穂子を、何か眩しいものでも見るように目を細め、月森が見つめる。
ああ、まるで。
今までピントの合っていない、ぼんやりとした世界を眺めていたかのようだ。
たった今、目が醒めたみたいに。
薄ぼんやりとしていた世界が、急に鮮明になるように。
時折、彼女の艶やかな笑顔だけが。
彼女と自分が生きる世界が、こんなに美しいものだったことを教えてくれる。
……彼女が、こんなに美しい存在だったのだと月森に真実を知らしめる。
そして、彼女は。
その輝かしい笑顔をもって。
……月森の心に鮮烈に、その存在を焼き付ける。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:11.10.2】
漫画版の、月森の特別編を意識して書いてみた話。友達と「月森から見ると香穂子ってこういうふうに綺麗に見えてるんだー!」とか盛り上がった覚えが(笑)
お皿だけとっかえる云々はどこかで読んだんですけど、どこだったっけ……?
結局、気持ちの持ち方次第で周囲の見え方が変わる、という話です。


