月森は、直感的にその扉を開いた主が誰なのかを悟る。たかが扉を開ける行為、誰が行おうがその行動そのものに大層な変化があるわけではないのだが、何度も同じような状況を経験しているうちに、知らず彼女の癖みたいなものを月森が覚えてしまったのかもしれない。
そう思いながら、一段低くなった場所を見下ろしてみると、予測通りの人物がそこには立っていた。普通科2年、日野香穂子。数週間前から開催されている学内音楽コンクールに、月森と一緒にヴァイオリンで参加する人物だ。
扉から数歩歩み出て、日野はしばしそこに。ベンチに座って譜読みをするでも、ヴァイオリンを取り出して練習を始めるでもない。訝しみながら、何となく息を殺すようにして月森が彼女の様子を伺っていると、日野はその場で大きく息を吸った。
「あああああーっ! もおおおおおっ!!」
吐き出す勢いのままに、日野が絶叫する。
予想外の彼女の行動に呆気にとられた月森の手から、握っていた楽譜の束が乾いた音を立てて滑り落ちる。バサバサッと自分の足元に散らばった楽譜にまた月森が驚く間に、物音に気がついた日野が慌てた様子でこちらを振り仰いだ。
「つ、月森くん!?」
驚いたように日野が目を見開く。息を呑んだ月森が咄嗟にどう反応していいのか分からず戸惑っているうちに、日野の方が照れくさそうに頬を赤らめ、苦笑した。
「ごめんね、いきなり叫んで。びっくりしたでしょ」
「……何か、あったのか?」
おずおずと月森が尋ねる。
今現在自分たちが置かれている状況下、思わず叫び散らしたくなる『何か』が全くないとは月森も思わない。
コンクールというものに対する重圧は当たり前のこと。その他の意図しない雑音も、こういう目立つ立場に立たされれば、否応なく聞こえてくるものだから。
「何か……は、いっぱいあるよね。うん」
強がって誤魔化してみても無駄なことは、日野自身も分かっているのだろう。取り立てて繕うことはせず、日野は素直に頷く。
「まずもって、ヴァイオリンの練習は思うようにいかないし、練習にかまけてると小テストの成績が散々だし、そうすると親や先生には嫌味言われるし、嫌味と言えばいろんなところからの風当たりは強いし」
指折り数えて日野はそんな『何か』を並び立てる。
聞いているうちに、何だか月森も溜息を付いてしまう。
「……ま、そんなわけで、ちょっとワーッと吐き出してみたくなったのでした。ここなら絶叫してても、あんまり気にする人がいないかなって思って」
まさか月森くんがいるとは思わなかったけど、と日野は笑って肩をすくめる。別に謝る必要もないことなのに、反射的に月森は「……すまない」と詫びてしまった。
「私の方も、練習の邪魔してごめんね。……それと、よかったら私もここで練習していいかな。昼休みに練習室の予約取りに行ったら、もういっぱいになってて」
身を縮めるようにして上目遣いに尋ねた日野に、月森は頷く。学内コンクールに普通科所属の人間が二人も抜擢された影響なのか、この頃妙に音楽科の練習は熱心に練習室の予約を取る。それはそれで、いい影響と言えるのかもしれないが、できれば設備の整っている練習室でしっかりと練習をしたいと願う、コンクール参加者の希望はまるでお構いなしだ。
「……更に差し出がましいお願いなんだけど、……一緒に練習してもらってもいい? どうしても引っかかっちゃうとこがあって……」
これまた遠慮がちに尋ねた日野に、月森は苦笑してもう一度頷いた。
ぱっと顔を輝かせた日野が、荷物を抱え月森がいる場所まで、階段を昇ってくる。準備するから待ってて、とヴァイオリンケースを開け、ヴァイオリンと楽譜とを準備し始める日野の背中を、月森は見るともなく眺める。
見れば見るほど、小さな背中だ。
たくさんのものを背負うには、儚くて華奢な存在。
……ヴァイオリンしか生きる術を持たない自分と違って、本当は、彼女は許されるのではないだろうかと月森は思う。
音楽から逃げることも。
もっと楽な気持ちで、ヴァイオリンに触れることも。
「……日野」
名前を呼ぶと、「ん?」と日野が振り返る。
何度か、言葉にすることを躊躇って。……それでも、どうしても尋ねてみたくて。
月森は、唇を開く。
「……君は、ヴァイオリンを辞めようとは思わないのか?」
その言葉に、日野がゆるゆると目を見開く。
自分が放った言葉の余韻が、屋上の広い空間に溶けて消える間を費やして、そして月森は改めて自分の言葉が微妙に必要な要素を有していないことに気付く。
「ああ、いや。辞めた方がいいとか、そういうことが言いたいのではなくて……」
以前、彼女の音楽に取り組む姿勢に疑問を投げかけ、「いい加減な気持ちなら音楽を辞めた方がいい」と告げた立場から、この問いを自分が彼女に投げるのは、誤解を招きかねないのだ。慌てて弁解しようとする月森に、日野は穏やかに笑んで、頷いた。
「うん、いいの。……月森くんの言いたいこと、分かる」
まだ出逢ったばかりのころの自分たちなら、日野は月森の言葉を額面通りに捉えていただろう。だが、音楽を通じて理解を深め、そうして数週間前よりは少しだけ心を通わせることが出来た自分たちだから、日野は月森の意図をもう少し深読みして、正確に捉えられる。
(心配してくれてるんだよね)
ヴァイオリンを弾くことの厳しさを、辛さを。
誰よりも正しく理解しているであろう、月森の事だから。
「……あのね、月森くん。上手く言えないんだけど……私は多分、ヴァイオリンと出逢ったことを、嫌なことにはしたくないんだよ」
何もなかった日野の世界に、彩りを与えたヴァイオリンという大切なもの。
確かに楽しいことばかりじゃない。幸せばかりを与えてはくれない。
苦吟も辛酸も。対になる要素を、物事は必ず連れてくる。それは、ヴァイオリンや音楽に限ったことではなく。
「でも、それを自分にとってのプラスに出来るかどうかは、きっと自分次第なんじゃないかって、最近思うんだ」
苦しむことでも、泣くことでも。そんな負の要素も、正の方向へ進むための糧にして生きていくのなら。
いつかどこかで振り返り、自分の足跡を見つめ直す時に、そんな痛かったものこそが、きっと輝いて見えるのだろうから。
「……君くらいにポジティブに生きていけたら、本当に怖いものなんてないのかもしれないな」
呆気にとられたように日野の話を聞いていた月森が、ふと落とすように笑って、視線を伏せる。
「何ですかそれ。どこまで呑気なヤツなんだーって話?」
少しだけ拗ねたように頬を膨らませる日野に、月森は首を横に振る。
真面目に、小さな声で呟いた。
「君が、羨ましい」
負の要素でも糧にして。
それを、前に進むための力にする。
……きっと、まぎれもない本心で、迷いなくそう言い切れるから。
君の奏でる音楽は。
あんなにも優しく……そして、強く美しい。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:11.10.12】
無印ゲームの中盤くらいを意識した話になってます。3セレくらいか?
どんなことでも自分の肥やしにしようって意識は、口で言うのは簡単だけど、難しいと思うんですよね。「何で私がこんな目に……」って思っちゃうじゃん(笑)だからこそ、香穂子はそういうキャラでいて欲しいなあ。


