ペンギンの羽根

月森×日野

 駅前の大きな楽器屋の店内に整然と並べられた楽譜の背を眺める香穂子が、背伸びをしてその中の一冊を取り出した。大切そうに抱えてレジへ向かう彼女の腕の中を何気なく覗き込んで、月森は少しだけ意外そうな声を上げた。
「『スケルツォ・タランテラ』?」
 何気ない指摘だったが香穂子には刺さったようで、彼女はう、と息を呑み、ちらりと上目遣いに月森を見上げた。
「どうせ、私にはまだまだ難しい曲だって、分かってますよーだ」
「……」
 そうだな、と馬鹿正直に答えそうになって、月森は反射的に言葉を飲み込んだ。きっと少し前の自分なら遠慮なく言い切ってしまっていたのだろうが、香穂子が傷付いたら、と思うときちんと急ブレーキがかかる。状況に応じて善し悪しはあれど、波風を立てないためには必要な技量なのだろうから、一応身についてるということは、月森にも彼女との出逢いで何かしらの成長があったということだろう。
 ……彼女限定であることも、否定はできないが。
 一方、月森が言葉にしなかったとしても、雰囲気や仕草で『そう』思ったことは伝わっていたであろう香穂子は、怒ることも拗ねることもせず、ただ穏やかな眼差しで自分の腕の中の楽譜を見つめた。
「全然、技術がないことも、あんまり私には似合わない曲だってこともちゃんと分かってるんだけど。頑張って練習して、いつか弾くことが出来るようになったらいいなって思って。……お守りみたいなものかな」
 小さく苦笑いをした後、香穂子はしばらく迷うように視線を空に巡らせ、やがて思い切ったように言葉を付け加える。
「……月森くんの演奏を聴いてから、ずっと弾きたいって思ってたの。今すぐには無理なんだけど、いつか弾きたいってこの曲を目標にしてたら、もっと頑張れるかなって思って」
 えへへ、と照れくさそうに笑ったその姿は、小さな花が開いたみたいに、とても可憐な存在のように思えた。

 レジでお互いに清算を済ませ、店員の丁寧な挨拶に見送られて店を後にする。
 日の陰った駅前通りを、お互いの家の方角へ向かってゆっくりと歩き出した。

 月森の脳内を、『スケルツォ・タランテラ』の旋律が絶え間なく流れている。それは楽譜通りの速度、音階を保ちながら正確に紡がれる、記憶の中にある自分自身のヴァイオリンの音色でしかなかったけれど、いつか香穂子の音色で紡がれるはずのこの曲のことを考えてみる。
 それはきっと、月森では生み出すことのできない。
 確かな技量と、努力とに裏打ちされながらも、決して可愛らしい人懐っこさを失うことのない、とても優しい音楽になる気がした。
「何考えてるの?」
 自分の心の中の音楽に浸り、口数の減ってしまった月森を、心配するように香穂子が問う。すまない、と詫びた後で、月森は何だか楽しそうに笑って、たった今、自分が空想していた音楽のことを話す。
「いつか君が弾いてくれる『スケルツォ・タランテラ』のことを考えていた。きっと俺の想像もつかないような、まるで印象の違った曲に仕上がるような気がする」
 言ってしまった後で、これはもしかして嫌味を言っていると誤解を招く言葉なのかと一瞬危惧したが、月森の言葉を曲解しない香穂子は、素直にその言葉を受け止めて呑み込む。
「ていうか、過剰に期待するのやーめーてー! 憧れではあるけど、私が演奏すると曲のいいところ台無しにしそうな予感が、自分でもものすごくするんだから!」
 片手で額を押さえ、香穂子が天を仰いだ。
 そんな彼女に、月森は笑う。
「君の場合は、台無しにするんじゃない。……要は適材適所というやつだろう?」

 難度の高い技術を必要とされる、月森のような技巧派が得意とし、または好む曲。
 確かにこの曲を聴きたがる聴衆たちは、主にそんな華々しい技巧を期待して聴いているのかもしれない。香穂子の技量で、そんな聴衆たちを満足させる演奏が出来るのかと言えば、不安を抱えざるを得ない。
 だが、彼女の音色の魅力は、そんなところにはなくて。
 どんな聴衆にも分け隔てなく、親しく、優しく語りかける音楽。
 たとえばそれが、どんな曲のどんな形を持って紡がれるのだとしても、根本にあるそんな彼女らしさは消えることはないだろう。
 ならばきっと、彼女が弾くこの曲は。
 新しい表情で、新しい魅力を自分たちへと伝えてくれる。

「だから、俺も君の弾く『スケルツォ・タランテラ』を是非聴いてみたい。……もう少し先の未来まで、楽しみに待っていることにする」
 笑顔でそう告げると、香穂子が何か悔しげにうう、と口の中で唸る。
 やがて、開き直ったように顔を上げた。
「だよね。だって、私には強力な師匠がいるわけだし!」
「……は?」
「しっかり教えてね、師匠!」
 満面の笑みでそう念を押されて。
 月森は思わず苦笑した。


 香穂子に出逢うまで、月森にとってのヴァイオリンや音楽の価値は、とても狭く、偏ったもので。
 正しい速度で、楽譜通りに音を並べること。その正確さこそが演奏の価値の全てだった。
 だが、香穂子の音色に出逢って。
 高い技術や正確さだけにとどまらない、ヴァイオリンの音色の魅力というものを知って。
 音楽というものは、聴く人の捉え方によってさまざまな価値が見いだせることに気付いたのだ。


 ペンギンの持つ羽根は、他の鳥類のように自由に大空を飛ぶことはできないけれど。
 うねる大海の中を優雅に泳ぐ力がある。
 ……それはまるで、空を飛ぶのと同じように。

 そんなふうに、必要とされる場所で必要とされる音楽を奏でることこそが、演奏者にとっての本当の幸せなのかもしれないと、月森は時々思うのだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:11.10.13】

適材適所、という話(笑)この時期に書いたものは漫画版が影響しているところが多々ありますね。
漫画版では、香穂子にとって一番の変化のきっかけになった曲は「アヴェ・マリア」、月森にとっては「スケルツォ・タランテラ」だと思います。お互いを意識したきっかけでもあると思うんですよね。
月森の場合は、「愛のよろこび」もありかな(笑)

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