放課後、薄暗くなった往来を歩きながら、香穂子が前方の空を見上げ、無邪気にそう呟いた。
香穂子が指差した方角に、月森も視線を上げてみる。確かに進行方向は北へ向かっていて、群青とオレンジのグラデーションがかかる空に、一点だけ目視できる星が輝いていたが、視界に広がる空気は少し薄曇りの様相を呈していて、本当に目の前に光り輝くものが不動の星であるかどうかは分からない。だが、本当は違う星なのだとしても何ら問題がないように月森には思える。
……それはきっと、良くも悪くも香穂子の影響なのだろうと月森は思う。
自分の心の中で、目の前にある星が北極星なのだと思えたら、それが別物だとしたって、自分自身にとっては真実だ。そういう大らかさは、きっと月森本人には持ちえなかった資質だろうから。
「ねえ、月森くん。いつか私が言ったこと、覚えてる?」
斜めに月森を見上げ、香穂子がそう尋ねる。月森が不思議そうに首を傾げた。そういう月森の反応も予想していたのだろう、不快感を見せることなく、香穂子が穏やかに笑う。
「月森くんが、北極星みたいだって言ったこと」
香穂子の言葉に、月森は過去の自分の記憶を辿る。まだ付き合い始める前、香穂子が楽譜とCDとを買いに行くのに同行した時、彼女を月森馴染みのプラネタリウムへ連れて行ったことがあった。
学芸員の解説もなく、ただ球面に浮かぶ人工の星と静かな音楽だけを堪能しながら二人で交わした会話のことを思い出した。
「ああ。俺の音楽に対する姿勢が、北極星の立ち位置に似ていると……そんな話をしたことがあったな」
真摯で誠実で。香穂子はそんな風に月森の音楽に対する姿勢を評価した。月森にしてみれば、自分の世界には唯一音楽だけしか存在しなかった。……他に想いを向ける対象が存在しなかった。ただそれだけのことだったのだけれど。
「月森くんの事好きになって……付き合うようになって。あの頃より、月森くんに対する印象って、ちょっと変わってきたりもしたんだけど、やっぱり月森くんって、私にとっては北極星みたい」
視線を伏せてそう言った香穂子の頬が赤いのが、寒さのせいなのか、夕焼けの色を映しているせいなのか。……それとも、照れているのかはよく分からない。
だが、その彼女の柔らかな曲線を描く頬を染める色は、月森の心をとても優しく仄かに暖める。
「月森くんは、やっぱり私が目指す星なんだ。揺るぎなく、変わることなく、ずっと遠くで輝き続ける、星」
顔を上げた香穂子の視線が、遠い空で光り輝く、手の届かぬ星を見た。それは、尊敬と憧れに満ちた、まっすぐな眼差。
その眼差に見つめられることを、きっと月森は誇っていいのだろう。喜んでいいのだろう。だが、何故か。……月森は、寂しくなった。
躊躇いがちに手を伸ばし、それから意を決して香穂子の片手を取った。突然握り締められて、香穂子が驚いたように月森を見上げる。
「俺は、ここにいる」
遠い場所じゃない。手の届かぬ場所じゃない。
きちんと触れ合える距離に。……彼女の隣に、ちゃんと立っている。
「君の傍にいる」
月森の言葉に、少しだけ目を見開いた香穂子が、ゆっくりと目を細める。
月森が握る香穂子の手が、力を込めて月森の手を握り返した。
「……うん」
小さな声で、そう答えたら。
何だか急に、香穂子は泣きたい気持ちになった。
確かに今、月森の存在は香穂子の手の届くところにあって、声をかければいつでも、優しく低い声が香穂子の名前を呼んでくれる。
(……でも、ずっとここにいちゃいけないよ)
それはきっと。
誰よりも、月森自身がよく分かっている。
お互いに繋いだ手に力を込めて。
夜の帳が下りてくる、秋の往来を二人で歩く。
もう、言葉はなかったけれど。
それでも心はとても近くにあるような気がした。
今は離れがたくとも。
離れる必然は、いつかきっと訪れる。
それでも、その別離をただ哀しみ嘆くのではなく。
前に進むための力にしたいと、香穂子はずっと思っている。
(私が見つけた、私だけの北極星)
道に迷う香穂子の行く末を、優しく照らし出す光。
貴方が遠い何処かで、揺らがず迷わず、真摯に貴方が生きるべき場所で生きていてくれるのならば。
私もきっと、迷わずに歩いていける。
歩みは遅くとも、足取りは重くとも。
いつか貴方の元へ辿りつく希望を、捨てることなく進んでいける。
(だから、どうか迷わないで)
捨てることも厭わず、失うことを恐れず。
貴方が本当に輝ける場所で。
光り続ける星でいて。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:11.10.15】
仄かに甘いものを目指していたのに無印ベースにしたばかりに一転切ない作品になってしまいましたとさ。
ブログに載せていた時にも説明しましたが、こちらはキャラコレCDの内容が元ネタになっていたりします。月日で星空関係書くこと多いな……無印の星空写真エピのせいでしょうか。


