愛することの繰返し

月森×日野

 木々の隙間から降り注ぐ陽光が、妙に眩しく、痛く感じるのは、あまり体調がよくないせいかもしれない。
 片目を細めてかざした掌の陰で、その眩しさへの不快感を呑み込んだ月森が小さな溜息をついた。
 それでもその不快感は、極力表へ出さない努力をしていたつもりなのに彼女はやはり騙せない。ヴァイオリンに弓を滑らせた最初の一音で、怪訝な表情の香穂子が、くるりと月森を振り返った。
「……何だ?」
 あくまでそ知らぬ振りで月森が問うと、香穂子は眉根を寄せて月森の顔を覗き込む。
「具合、よくない?……よね?」
 元々の耳の良さか、それとも月森個人に対する彼女の勘の良さか。
 練習を続けていれば、確かにいつかは見抜かれる覚悟があったものの、まさか最初の一音で気付かれるなんて。
 彼女のその勘の良さにはさすがに月森も苦笑するしかない。
「……少し寝不足なだけだ。夕べ、この楽譜を読むのに夢中になってしまったから」
 休日の公園で香穂子と弾く約束をしていた、新しい楽曲。少しでも二人の練習を有意義なものにしたいと、楽譜を眺めて練習の段取りを考えているうちに、妙に目が冴えて眠れなくなっていた。何時に寝たの?と香穂子に問われ、月森は昨日の自分を思い返す。時計を見た時には午前3時を回っていたと答えたら、香穂子は増々渋い表情になってしまった。
 月森との待ち合わせは午前9時だった。諸々の準備を1時間で済ますと考えても、月森の睡眠時間は5時間前後ということになる。普通ならそのくらいの睡眠時間で充分なのかもしれないが、彼が毎日ヴァイオリンに費やす練習時間と体力とを考慮すれば、むしろそれでも足りないくらいだ。時計を確認した時に3時を回っていたというだけで、その後にすぐに就寝したというわけではないのだろうし。
「月森くんは指とか手の傷とか、そういう外側の怪我にはうるさいくせに、内側のことになると無頓着過ぎるよ!」
 己の体力を過信し過ぎる、と言い換えてもいいのかもしれない。ヴァイオリンの練習を始めると周りのあれこれを気にせずに夢中になるのは、さすがの集中力と讃えるべきなのかもしれないが、そこで体調を崩すのであれば結局は本末転倒だ。
「……しょーがないなあ」
 ぽつりと呟いて、香穂子はベンチに置いていた自分のヴァイオリンケースの中にヴァイオリンをしまい、ぱたんと蓋をする。驚いてその行動を見守っていた月森に歩み寄ると、その手からヴァイオリンを取り上げて、同じようにベンチに置いてあった月森のヴァイオリンケースの中に、丁寧にヴァイオリンを片付ける。
「……香穂子?」
 戸惑う月森をくるりと振り返り、香穂子は小さく首を傾げて苦笑した。
「午前中は休憩して、ちゃんと睡眠取ろう? まだ、午後にも時間はあるんだから」
「そうは言っても……今から家に帰るのは二度手間な気がするんだが……」
 また数時間、香穂子と一緒ではない時間が出来てしまうと寂しがる、情けない本心は見せないように心掛けながらも、月森が困惑していると、香穂子はきょとんとして自分の足元を指差した。
「別に、帰らなくてもいいよ。ここで休めば」
「……は?」
 増々困惑する月森の目の前で、香穂子は側の大木の根元にすたすたと歩み寄り、よいしょ、とその場に腰を下ろす。芝生の上に両足を投げ出して、デニムスカートの表面をぱしんと掌で叩く。
「程よくお肉もついてるはずだし。さあ、どーぞ」
 どうぞ、と言われても。と、内心呟きつつ、月森は香穂子の意図する行動に思い当たって、思わず頬を染めて口元を片手で覆う。
「香穂子……それは、あまりにも……」
 恥ずかし過ぎるのでは?と言いかけて口籠る月森に、香穂子は少し困ったような表情で空を見つめる。
「そりゃ、月森くんちのベッドの感触に比べると全然感触落ちるけど。でも、月森くんが言ったみたいに帰るのは二度手間だし、それにせっかく逢ったのに、また逢えない時間ができるのは嫌だし」
 香穂子の困惑は、月森とは別のところにある。
 ただ、その驚愕の申し出の根底にあるものは、どうやら月森と同じ感情のようで。
 月森は小さな溜息を付く。……月森の困惑の理由を白状するのは簡単だが、体調が万全でない理由を作ったのは月森なのだし、一度落ち合ったのに、また後で、にしたくないのは二人とも同じ気持ち。
 月森は覚悟を決める。戸惑いを振り払うように大きなストライドで香穂子の側に歩み寄って、それから勢いでその場に横たわる。どうとでもなればいい、と半ばやけくそ気味に香穂子の太腿を枕にした月森を気づかうように、もぞもぞと香穂子が動く。
「頭、痛くないかな? 位置はこの辺で大丈夫?」
「……ああ、すまない」
 自分とは違う、香穂子の柔らかな感触。
 恥ずかしいのに、……その場は確かに居心地が良くて。
 眩しくないようにとの気遣いからだろうか、香穂子の身体が月森を覆うようにして木々の隙間から降り注ぐ陽光を遮り、気持ちだけだけど、と自分が着ていた薄手のカーディガンを香穂子がそっと月森の肩にかけてくれる。……淡く、微かな甘い香穂子の香りがする。
 月森は目を閉じて、大きく息を吸って、吐いた。

 こんな状況では、きっと眠れないと思った。
 自分は別に余裕があるわけでも、そういう行為に免疫があるわけでもないから。
 すぐ側に彼女の存在を感じ過ぎて、きっと眠るどころの騒ぎじゃない。
 ……だが、思いがけないほどに、彼女の膝枕は心地よくて。
 肺には、微かな彼女の香りが満ちて。
 ……心は、凪いで。
 安堵したところで、ゆるゆると寝不足気味の脳に睡魔が忍び寄ってくる。
「……数十分で構わない。君が辛くなったら、遠慮なく起こしてくれ」
 小さな声で月森が呟くと、頭上から「うん」という柔らかな声が光と共に降り落ちてくる。
 労るように優しく髪を撫でてくれる、愛おしいヴァイオリニストの指が心地よくて、月森の意識が浅い眠りに誘われる。

 きっと、恋人同士なのだから。
 自分が思うほどに、これは特別な行為などではないのだろうけど。

 誰かに甘えることを知らなかった自分は、ただ誰かの身にこの身を委ねて眠ることの、その快さを知らない。
 ……香穂子が、月森だけのそんな勝手な事情まで慮ってくれたとは思わない。

 それでも、香穂子だけが。
 いつだって月森に教えてくれる。

 眠らせてくれる優しさが。
 身を委ねさせる強さが。
 髪を撫でる指の愛おしさが。
 ……そんな、おそらく他の誰かにとっては取るに足らない、小さな小さな幸福が。
 繰り返し、繰り返し。
 こんな自分に、自分ではない誰かを愛させてくれること。

(そう……それが、どれだけささやかなことであったとしても)
 穏やかな眠りに落ちる意識は、心の奥底の普段は踏み入れることのないとても深い場所で。
 そのささやかな僥倖の意味を噛み締める。



 ……香穂子。
 君はきっと、知らないだろう。
 君には当たり前に思えることでも。
 君には何気ないように思えることでも。

 そんな些細な行動、一つ一つに。
 どれほど俺が救われて。
 そのたびに、どれだけ君に俺が惹かれ続けているのかを。


 月森が生きて来た単色な寂しい世界の上に、パステルカラーの小さな幸せが降り落ちる。
 ささやかなもの全てが、『幸せ』という華やかな暖かい色を持つものに変化する。

 愛おしい君と過ごす日常に転がっている幾つもの。
 何気ない行為。
 些細な仕草。
 もしかしたら、他の誰かにとっては当たり前に存在するものなのかもしれない、その全て。

 今まで『それ』を知らなかった自分にとって。
 君と過ごす『日常』は。

 ただ、『愛すること』の。
 ……幸せを強く噛み締めることの、繰り返し。




あとがきという名の言い訳 【加筆修正:2010.6】

ずばり、書きたかったのは「香穂子の膝 on 月森」ですよ。(←笑うところ)
私的に、夜更かしが得意、朝が弱いっていうのが月森の標準装備かなと思います。ヴァイオリンに限らず、その日1日を悶々と振り返って反省して眠れなさそうじゃないか!(違)

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