色とりどりの世界

志水→日野

(……あ、今の……)
 いい音だったな、と志水は自賛する。重なるヴァイオリンの高音とチェロの低音が、綺麗な和音を響かせた。
 もちろん弾き込んだ旋律を今更違えることはないけれど、今の瞬間まで自分の中は空洞なままだった。音の並びの事なんて考えていなくて、息をするみたいに当たり前に弓が動いていた。
(だから……かな)
 意識したことはなかったけれど、思い返してみれば志水はいつも何かを考えながらチェロを奏でていたような気がする。
 楽譜通りに正しく弾かなくちゃ。
 練習通りに上手に弾かなくちゃ。
 そうしたいと自分自身が思って、そんな完璧な演奏を目指して奏でていたのだから、別に後悔も何もないのだけれど、それ『だけ』では本当に自分が弾きたかった音は弾けないのだと、志水に教えてくれた人がいる。
(香穂先輩……)
 上目遣いに視線を上げて、目の前で颯爽と背筋を伸ばしてヴァイオリンを弾く人を見た。
 香穂子はそんな志水の視線にすぐに気付いて振り返り、旋律の流れは止めぬまま、ふわりと花開くように笑う。
 その笑顔が優しくて。
 ……愛おしくて。
 何か、甘くて暖かい感情が胸にすとんと落ちるから。
 志水も、つられるみたいに小さく微笑んだ。


 いっぱい、知りたいことがあった。
 この世界のこと、一つ一つ。
 例えばそれが、小さなこと、つまらないことでも。
 それが音楽に関わることであるならば、残さずに全て。

 だが、それと同時に志水は沢山のものを切り捨てて来た。
 音楽に関わらないもの、必要がないもの。
 人生を生きていればそれらは巡り巡って、いつか志水の音楽に必要足るものになるのかもしれないけれど、世界に存在するもの全てを受け入れるには、志水という容れ物はあまりにも小さ過ぎて。
 何かを選ばなければならなかった。
 自分に本当に必要なものを、取捨選択しなければならなかった。
 それは無意識のうちではあったけれど、確かに志水はそうして沢山のものを自分の中に受け入れると同時に、沢山のものを切り捨てて来たのだ。
(……でも、先輩は違う……)
 日野香穂子。普通科からの学内コンクール参加者。
 内緒にしてね、と苦笑して打ち明けてくれたけれど、本当は数カ月前までヴァイオリンを触ったこともなくて。
 志水が知っている当たり前のいろいろなことを、知らなかった人。……それなのに。

 貴女の音色は、何時だって彩りに満ちている。

「どうしてそんな音が弾けるんですか?」と、いつか尋ねてみたことがあった。
 だけど、肝心の香穂子は、自分の音の魅力を良く分かっていないようで。
「私の音って、どんな音?」と逆に尋ねられた。
 志水は咄嗟に伝える言葉に迷って。自分の心の中から、懸命に似合う言葉を探して答える。
「そうですね。一言で言えば、多彩……です」
「うーん、そっかあ。……自分じゃ良く分からないけど、つまりは気持ちの浮き沈みが激しいってことなのかな? あ、あと単純なの」
 眉間に皺を寄せて考え込みながら、香穂子はそんなことを呟いた。
「単純……?」
 多彩という言葉とはあまりにもかけ離れた言葉に、ぽかんと呆気に取られた志水が繰り返すと、香穂子はそんな志水を振り返って「うん」と屈託なく笑って、頷いた。
「花が咲いてたら「綺麗」とか、お天気が良かったら「気持ちいい」とか。そんなふうに、すっごいどうでもいいことにいちいち感激しちゃうから、音にもそういう単純な面が出てくるのかも」
 言われてみて、ああ、そういえばそうかなと志水も納得する。
 自分では、まだ満足は出来ていない志水の奏でるチェロの音色を、とても素敵だよ、といつでも笑って言ってくれるような人だから。
 きっと彼女は、世界に存在する沢山の小さなもの一つ一つを、受け入れて愛する。

(それは、『単純』なんじゃなくて……)
 きっと、『素直』という言葉に置き換えられるんじゃないかと、志水は思う。

 日野香穂子という女性は、彼女自身の目に止まる、世界の全てを。
 どんな些細なもの一つでも、素直に、柔軟に受け止める。

 志水が香穂子のヴァイオリンに、今まで出逢ったことのない特別な魅力を感じたのは。
 彼女という人間が、いつか音楽の檜舞台に上ることを目指すためではなく、純粋にヴァイオリンという楽器を……そして音楽を愛していて、その愛情全てを、ヴァイオリンで曝け出せる、そんな素直さと、尋常でない覚悟を持っているヴァイオリニストだったからなのかもしれない。
 誰かに認められるための音楽じゃなく、誰かに誉められるための音楽でもなく。
 彼女の言葉に出来ない感情を、別の誰かに伝えていくためだけの手段として歌われる旋律だったから。

 音楽だけを見つめない彼女を、もどかしく思うことがあった。
 簡単に音楽以外のものを心に入れてしまう彼女を、非難したい時だってあったのだ。
 だが彼女は、志水の知らない音楽をきちんと知っている。
 それはきっと、彼女の見ている世界が志水が知っている世界よりも、多くの彩りに満ちたものだから。

 余計に思えるもの、無駄に見えるもの。
 全てを受け入れて作られる世界は、たとえ高尚なものでなかったとしても。
 彼女の音色そのままに、きっと……訳もなく美しい。

(僕も……そこに行けるかな)

 あの時は知らなかったはずの自分が、もう志水の中に存在している。
 音楽だけでなく、たった一つのものでなく。
 もっと違うものに目を向けること。
 チェロ以外のものを……音楽以外のものを愛することで、また新しく広がっていく、志水が生きる小さな世界。

(……貴女が、大好きです)

 そんな、音楽とは関係ないはずの感情を呑み込むことが。
 巡り巡って、その感情は志水の音色を豊かにする。

 あの時、貴女が僕に告げた言葉の意味は。
 ……きっと、そういうことなんだ。



 無駄にすら思えるほどの数多なヒトの想いを。
 ……誰かに向ける想いを音色の中に全部詰め込んで、そうして奏でられる、綺麗で柔らかな和音が広がっていくそこは。
 沢山の『感情』という彩りに溢れた、色とりどりの世界。




あとがきという名の言い訳 【加筆修正:2010.6】

志水と月森に関してはよくも悪くも完璧主義というイメージです。故に割と思考が行き詰まるというか。香穂子との出会いで感情的・感覚的に変化して行くのが上記の二人と思ってます。
そんな感じで、渡瀬の中で志水という子は意外に理論武装な子なんです(笑)

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