この先は何処?

金澤×日野

 通りを歩いていて、頬に当たる風の中に微かな花の香りを見つける。
 春になるんだなとぼんやりと思って、それから香穂子はもうすぐやってくる『春』の中にいる自分を空想する。
 きっと、慣れ親しんだもの全てが一新されて、最初は戸惑いばかりなんだろうなと、ちょうど3年前に同じ緊張感に身を置いていた自分自身を思い出した。

 そう、この春香穂子は、高校を卒業する。




 卒業すると同時に終わって、そして新しく始まるものがある。
 約2年前に初めの一歩を踏み出して、それから停滞していたままの恋。
 その理由は、相手が教師だったから。誰にも言うことのできない内緒の恋だった。
 彼は香穂子の想いを受け入れてくれたけれど、決して恋人としての関係を始めようとはしなかった。
 互いの想いは通じていても、本当に恋人として振る舞うのは、高校卒業後という二人だけの決まりごと。時々、ちょっとだけフライングがあったことはこの際目を瞑るとして。
 それは、単に自分が臆病だからなのかもしれないと彼は苦笑していたが、そんなことはないと香穂子は思う。
 彼の立場から言えば、香穂子という教え子との恋愛は御法度で、公にしてはいけないという考えはもちろんのことだろう。だが彼が言うように、それが彼の保身だけで戒められるものであるとするなら、そもそも香穂子はそんな自分勝手な男を好きにはならなかった。
 この関係の発展を留めた最初の理由には、香穂子の立場を守るためというものがあった。……それが香穂子が都合良く解釈した勝手な思い込みであったとしてもいい。重要なのは、香穂子が彼……金澤紘人を、そういう人間だと思っている……知っているという真実だけだ。

 そして今、香穂子は自分が高校という狭い世界を飛び立って、金澤と新しく関係を築くはずの希望ばかりが満ちているはずの『春』の自分に、逆に不安を抱いていた。


 ずっと、願っていたはずだった。
 何も怖がらず、何も遠慮せず、ただの男と女として金澤と向き合える、新しい日々。
 だが、慣れ親しんだ学び舎を巣立ち、新しい環境に身を置く際に、期待と共にどうしても不安を抱かずにはいられないように。
 香穂子は、これで変わってしまう自分達の関係が、怖かった。
 恋人同士とはおおっぴらに言えないとしても、二人に優しく甘く、暖かい感情がきちんと通っていることを香穂子は知っていたから。
 時々、楽に触れ合えないことに寂しさを覚えることはあっても、既に現状に満足していた自分がいた。
 少なくとも、教師と生徒という確実な関係性は壊れることがなかったから。
 だけどこの先には、もう安全地帯がない。
 ただの男と女になってしまえば、それは自由であることと同時に。
 教師と生徒という最低限の繋がりを失うということでもあるのだ。


(……先生は)
 どう思っているのかな、と香穂子は考える。
 香穂子が生徒でなくなることを嬉しいと思ってくれていて。
 その反面、どうしても金澤の目が行き届かなくなる世界に巣立つことを、少しは寂しく、不安に思ってくれているだろうか。
 自分に都合のいい勝手な金澤の思考を空想して、香穂子は苦笑して首を横に振る。
 ……多分、金澤にこんな不安はないのだろう。
 彼は、もう充分に大人で。
 そして、対する香穂子はまだ幼いから。
 新しい世界に踏み出すことにただ不安を抱き、自分が願っていたはずの事象にまでその不安が浸透していくのは。
 香穂子に確固とした自信なんて、最初から存在しないからだ。

「……先生?」
 ぐちゃぐちゃと複雑な心境が入り交じったまま、香穂子は金澤がいるはずの音楽準備室のドアをノックして、返事を待たずにドアを開ける。開いた窓の枠に両手を付いて外を眺めていた金澤が振り返って、「……よう、お疲れさん」と片手を上げた。香穂子は後ろ手にドアを閉めて、小さく首を傾げた。
「改めて話って、なんですか?」
 香穂子は受験が終わって進路も決まり、卒業式までは自由登校の身だった。
 そんな中、わざわざ学校に出向いたのは、金澤からメールで「今日、学校で会えるか?」と呼び出されたからだった。
「ああ……まあ、なんだ。とりあえず、そこに座れや」
 いつになく歯切れの悪い答え方をする金澤が、側にあったパイプ椅子を香穂子に指し示した。怪訝に思いながらも、香穂子はそこにすとんと素直に腰を下ろした。
 上目遣いに金澤を見上げて、金澤が話し出すのを待っていると、しばらく迷うように窓の外に視線を向けて言葉を探していた金澤が、意を決したように一つ大きな息を付いて、香穂子の方へ向き直った。
「突然だがな。お前さんがここを卒業したら、俺も教師を辞める方向で行こうと思っているわけだ……」
 予想外の金澤の告白に、香穂子は当然驚いて、目を丸くした。
「な……何で急に?」
「急ということもないがな。……お前さんを……その、何だ。……好きに、なってから。ずっと考えてはいたことなんだが……」
 照れくさそうに指先で頬を掻き、金澤は視線を外に向ける。
 留まっていた狭い内側の世界から、外へ向かって解き放たれる、新しい世界へと。

「もう一度、歌をやってみるかってな」

 ブランクはある。
 自暴自棄になって苛め抜いた喉は、決して簡単に昔と同じようには戻れないだろう。
 それでも簡単には諦めない、無造作に投げ出さない香穂子のその心根を愛したその時から。
 ……金澤の中に小さな希望が芽生えた。

「まあ、本格的にここを辞めて歌に戻るには、それなりの準備もいるがな。仕事も引継がにゃならんし、各方面に挨拶回りに行ってみたり……活動のそのものの基盤を作らなきゃいけないからな」
 そうして、金澤は無意識に白衣の胸ポケットを片手で探り、思わず苦笑いをする。
 そこに当たり前のように収めていた煙草のケースが、今はない。香穂子に叱られながら、急に辞めるのは無理だからと徐々に本数を減らしていった結果、ようやくそこにケースがなくても何とか過ごせるようになった。
「お前さんが新しいスタートラインに立つのと同時に、俺もまっさらな場所に立ってみるさ。お前さんより年が上の者としちゃ、ちったあいいところも見せなきゃいかんしな」

 行く先を知らない未来。
 まっさらな何もない道。
 何処に辿り着くかは分からなくて。朧げな映像すら見えなくて。
 ……道の先に立っている自分自身も、金澤と自分との関係も、未来の何もかもが分からなくて。

 自由になれ、と背中を押される。
 もう歩き出せと促される。
 でも、この先は何処?
 いったい、自分は何処に向かえばいいの?
 ……そんな重い気持ちが、ただ心の中を晴れない雲となって覆っていた。

 だけど金澤は、安定した何もかもを捨てて、また新しくそこに立つという。
 ……不安にならないはずがないであろうに。
 他の誰でもない、香穂子の影響で。

「……香穂子」
 呆然と金澤を見上げていた香穂子を、真直ぐに見つめ返して。
 低く、穏やかな金澤の声が香穂子の名を呼ぶ。
 ……今までは、ほんの数回しか呼んでくれたことのない、『恋人仕様』としての香穂子の名前を。

「『教師』じゃない俺を、お前さんは好きでいられるか?」

 ……大人の振りをして。
 全ては香穂子の意志次第、みたいな言い方をして。
 決断を全て香穂子に委ねるのは、大人であるが故の金澤の狡さで。
 香穂子がとても愛おしく想う彼の弱さ。


「……馬鹿にしないで下さい」
 どうしても泣き笑いになっちゃうから、怒っているように言ってみてもまるで説得力ないかなと自覚しつつも。
 香穂子は自分の精一杯で、強がってみせる。
「どんな先生でも、私は絶対……絶対、好きでい続けるんだから!」
 約2年間、曖昧な関係を許諾して来た時間、そのものが。
 香穂子の揺らがぬ想いの強さの、その証。

「……じゃあ、これからもひとつ。よろしく頼むわ」

 ぽん、と金澤の掌が香穂子の頭の上で弾む。
 その手を両手で掴まえて、泣き笑いの香穂子は、ただぎゅっと強くその大きな掌を握りしめる。
 ……それぞれの道を歩き出す自分達が、決してはぐれないように。



 優しく、護られていた世界から新しい一歩を踏み出す時、その先の景色は見えなくて。
 自分達が何処に辿り着くのかも、きっと皆分からない。

 それでもきっと、私達なら大丈夫。

 これからは、ずっと手を繋いで。
 隣り合わせでそれぞれの道を、一緒に肩を並べて歩いていけるはずだから。




あとがきという名の言い訳 【加筆修正:2010.6】

金やんというキャラはいい感じに大人(笑)なので、教師と生徒という障害がなくなってしまうと一番穏やかなCPになる思ってます。
後は、金やんの我慢の限界がどの辺なのかというのが気になる(笑)我慢が効かなそうなのは、どちらかというと理事の方かなというのが私の意見。

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