届かなくても

王崎→日野

「……あ、あの、えっと! ひ、日野です!」

 携帯に着信があった時に表示されていた名前と違うことなく、回線の向こうで聞き慣れた声が慌てたように自分の名を告げた。
 ちゃんと彼女からの電話だと分かっていて電話に出たはずなのに、受話器越しの相手の声が本当に彼女であることに、王崎の方も少なからず驚いていた。
 そのせいで、言葉を発するのに少々の時間を要した。「先輩?」と気づかうような彼女の声で、はっと我に返った王崎が「ああ、ごめん」と応じる。
「突然すみません、今、電話大丈夫でした?」
「うん、平気だよ。何か……」
 あったの? と問いかけようとして、ふと王崎は少し前に自分が彼女宛に送ったメールのことを思い出す。
 コンクールで弓を取り落とし、思い通りの演奏が出来なくて、つい送信してしまった弱音と愚痴めいたもの混じりの、情けないメール。
 ただどこかに吐き出したかった、誰かに言わずにはいられなかった弱い思い。
 真っ先に頭に浮かんだのは彼女だった。
 親しい友人も、付き合いの長い後輩も、きっと王崎が弱音を吐けば受け止めてくれるくらいの度量はあるだろう。それでも、何となく弱音を吐いてみたいと思えたのは、日野香穂子という最近知り合ったばかりの後輩だった。
 弾いているのが同じヴァイオリンで。
 音楽を楽しむことの意味を知っている子で。
 そして、同時にヴァイオリンを弾くことの……音楽を作ることの難しさと怖さとを知っている子だから。
 ……だから、王崎は彼女に弱い言葉を告げてみたくなったのかもしれない。
 読み捨てて、放り出してもらっても構わないと思っていたメールだ。だが、よくよく思い返せば、幾ら聞き流していい、放っておいていいとこちらが思っていたとしたって、誰かの弱音を何事もなかったのように受け流せるような、そんな女の子ではないのだ。
 彼女は彼女で自分のアンサンブルコンサートの準備で忙しい頃だ。それなのに、王崎のことで余計な負担をかけてしまった。そんな肝心なことを、王崎は失念していた。
「……ごめんね、日野さん。気にしてくれたんだよね」
 小さく笑って王崎が言うと、受話器の向こうの香穂子はしばらく黙り込んだ後、「……はい」と答えた。
「本当にごめんね。……きみに、迷惑をかけたいわけじゃなかったんだけど」
「迷惑、だなんて」
 慌てたように香穂子が受話器の向こうで呟く。
 王崎は思わず苦笑した。……自分のあのメールが原因で彼女がこの電話をかけてくれたのだから、彼女としてはきっと言葉に気を使ってしまうはずだ。平気だと強がってみたところで、きっかけは自分の弱音なのだから、騙せないのは分かり切っている。
「自分ではできるだけ明るい文面にしてみたつもりなんだけど。……そりゃ、驚くよね。突然、あんな弱音を吐いてしまったら」
「あ、はい。……いえ、驚いたのは、そうなんですけど……」
 受話器の向こうの香穂子は、辿々しく言葉を選ぶ。王崎はただ、黙って彼女の言葉を待ってみた。
「変な言い方かもしれないけど、王崎先輩でも緊張されることあるんだな、って。ちょっと安心したりもしてみたり……」
 私、いつもがちがちですごいですから! と真剣な口調で香穂子が言った。
 慰めの言葉なのか、本当にそういう奥に何らかの意図を含ませていない、正直な言葉なのか、分からないけれど。……多分、後者なのだろうと王崎は思う。
「だから……えっと、なんか上手く言えないんですけど、すぐに弓を拾って、演奏は崩さなかったって仰ってたし……私がこんなこと言っても説得力も何もないんですけど、きっと、大丈夫じゃないかなって思うんです」
 王崎の高い技術、表現力は長年積み重ねて来た経験の差から、香穂子では足元にも及ばないことは言うまでもない。
 だが、香穂子が知る王崎のヴァイオリンの魅力は、多分、そんな技術や表現力にあるわけではないと思うから。
「王崎先輩のヴァイオリンって、なんて言うか……優しくて」
 凪いだ水面のような音色だと、香穂子はいつもそんなふうに思う。
 包み込むような、そっと側に寄り添ってくれるような。
 そんな穏やかな優しさで、ずっと身を委ねていたくなるような……そんな心地よい旋律。
「心が落ち着くような、優しくなるような。そんな音色だっていつも思うんです。……王崎先輩のヴァイオリンの魅力って、そういうところだと思うから……なんか、心配しなくても大丈夫だって」
 どんな基準や審査方法でコンクールの合格が決まるのかなんて、経験がない香穂子には分からない。
 浅はかな素人考えで言いたいことを言って、何の保証もないのに簡単に大丈夫だと言うことは、無責任なのかもしれない。
 それでも香穂子は、王崎のヴァイオリンの音色の価値を、ちゃんと知っているから。

 たとえ、どれだけ緊張していたって。
 小さな失敗があったって。……いつもの王崎ではなかったのだとしたって。
 人の本質がそう簡単には変わらないように、長年繰り返されて育てられて来た王崎の音楽の根本が変わるわけではないだろう。
 ならば、どんな演奏であっても、その根底には確実にあるはずだ。
 王崎が、初めて逢った時から香穂子に繰り返し教えてくれていた『音楽を楽しむこと』で生まれてくる音色。
 たとえば、緊張で王崎本人がそれを意識していなかったとしても。
 きっと彼のヴァイオリンは『それ』がなければ正しく歌わない。

「だから、もしそれで先輩がコンクール不合格とかなっちゃうんなら、それはきっと審査員の人たちの見る目がないんですよ」
 すぱっと言い切った香穂子の言葉に、王崎は一瞬目を丸くして。
 それから、思わず小さく吹き出した。
「……それは、言い過ぎだよ、日野さん」
「そうですか?」
 笑い混じりの、柔らかな彼女の声。
 何となく凝り固まっていたように思える王崎の感情をゆっくりと包み込む。
 ……暖める。

(……本当は、結構落ち込んでいたんだって白状したら、君は笑うかな?)
 彼女より、長くヴァイオリンを弾き続けて。
 人生も、ほんの少しだけ長く生きて。
 失敗も、苦悩も。人並みには繰り返していたはずで。
 彼女よりは、人生経験豊富で、彼女が知らないことをちゃんと知っているはずなのに。
 それでも人というものは、簡単に小さな石ころにつまずいて、そんな些細なことで想像以上に傷付ついたりするのだ。
 だけど自分ではない別の誰かが、それは大した傷じゃないって、笑い飛ばしてくれるなら。
 ……本当に大したことじゃないって、そんなふうに自分も思えるんだ。

「……ありがとう、日野さん」
 演奏に支障をきたすような致命的な失敗じゃなかった。
 それでも小さな石ころにつまずいて転んで出来たかすり傷は、今まであまり負った記憶のない傷だったから、王崎は思っていた以上に、その傷に狼狽えた。
 だから、本当は誰かに笑い飛ばして欲しかった。
 そんな傷は、大したことはないんだと。
 もっと他に、目を向けるべきことがあるんだと。
 そして、香穂子はそんな勝手な王崎の願いに、見事応えてみせてくれたのだ。
「まだ、駄目だったと決まったわけじゃないからね。次のために、また気持ちを切り替えて準備するよ」
 そうして下さい、と安堵した声で香穂子が笑った。

 その目には見えない声の眩しさに、目を細め。
 王崎は、胸にほのかに息づき始める、暖かな想いの存在を知る。


 電話を切って、手の中の携帯を見つめ。
 例えば、これで本当にコンクールから脱落していたとしても。
 おそらく自分はそれほどに、ショックを受けはしないだろうと王崎は思った。

 それでも、万が一。
 もし自分にまだ昇り行くチャンスが与えられるなら。

 『想い』をヴァイオリンに歌わせよう、と王崎は考える。
 彼女が言ってくれたように。
 自分のヴァイオリンの音色の価値が、技術以外の場所にあるのなら。

 芽吹いたばかりの、まだ名前も知らないくらいの。
 優しい、優しい。微かな想いを。
 君の為に生まれる、綺麗な甘い想いを。
 自分は、正しくヴァイオリンに歌わせよう。

 たとえ、ヴァイオリンを奏でるその瞬間には、遥か遠い場所にいる君に。
 その音色が、届かなくても。

 いつか来るべき未来で、同じ、鮮やかな感情を。
 同じ熱で、いつでも君に。
 間違いなく、届けられるように。




あとがきという名の言い訳 【加筆修正:2010.6】

電話がらみのイベントって、何か好きなんですよね。
割と評判の良かった創作なんですが、私的には誰かを頼ろうとする先輩が書けたのが満足だったりします。頼られるのは慣れてるだろうけど、頼り慣れてはいないんだろうなあ(笑)

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