頑張れって言わないで

土浦×日野

「頑張れよ」って、いつもそんなふうに言って。
 優しく掌でぽんって、軽く頭を叩いてくれるから。
 それが心地よくて、嬉しくて。
 どうしても……どうしても、その期待に応えたいって。
 ……そんなふうに、思ってたんだ。




 はっと気が付いたら、あまり馴染みのない天井が目の前に広がっていた。
 香穂子はぱちりと緩慢に大きな瞬きをする。咄嗟に掴んだシーツはきっちり糊が効いていて、これも馴染んだ家のものじゃない。空間に漂う微かな消毒液の匂いから、ようやく香穂子はそこが保健室であることに気が付いた。
(貧血起こしたんだっけ……)
 ヴァイオリンを弾いていて、急に手足の先から血の気が引いたことは覚えている。「あ、まずい」と思った時には、ふうっと意識が遠のいていた。ヴァイオリンはちゃんと守ることが出来たのだろうかと心配になって、慌てて身を起こそうとしたら、自分が横たわっていたベッドのすぐ脇に人影があることに気が付いた。
「……土浦くん」
 ぽつりと香穂子がその人物の名前を呼ぶ。
 そういえば一緒に練習室にいたんだ、と、こんがらがっていた記憶もようやく整理されて、正しい場所に戻りつつある。香穂子の掠れた声に、ほっと土浦が安堵の息を吐いた。
「やっと目ぇ覚ましたか。……ったく、いきなり倒れるから吃驚したぜ」
 咄嗟に起き上がろうとした香穂子の額を指先でついて、土浦は香穂子の身体をベッドに沈ませる。
 視線だけで土浦を伺うと、まだ寝てろと告げられた。うん、と素直にシーツの中に潜りかけて、香穂子はまた、先程自分が慌てて身を起こそうとした原因を思い出した。
「そうだ、私のヴァイオリン……!」
「馬鹿、寝てろって言ってんだろ……!」
 慌てたように土浦が叫んだ理由が、そこにきてようやく分かった。まだ万全でない身体は、突然勢いを付けて起き上がろうとしたことで、急激なめまいに襲われる。土浦に言われるまでもなく、世界がぐるりと一回転した香穂子は、なす術もなく再度ベッドへと沈み込んだ。
「まだ顔色は悪いんだ。……せめて血の気が戻ってくるまで、大人しく横になってろ」
「うん。あ、あの、土浦くん。私のヴァイオリン、どうしたっけ……?」
「ああ」
 恐る恐る尋ねた香穂子に、合点がいったように頷いて、土浦は親指で自分の背後を指し示す。香穂子が視線を向けると、そこにあった保健医用の机の上に、馴染みのヴァイオリンケースと、その他諸々の香穂子の荷物が置いてあった。
「しっかり抱え込んで倒れたぜ、お前。おかげでヴァイオリンは無傷。……月森でもねえくせに、お前も立派なヴァイオリン馬鹿だよな」
 苦笑いで土浦が言った。無事だったんだ、と香穂子は安堵の息を付く。
 ヴァイオリンが、今の香穂子を形作るための根源。
 たとえ、それが数カ月前までには香穂子の人生に必要ではなかったものだったとしたって、現在の香穂子には、必要不可欠なものだ。
 今ではもう、ヴァイオリンを弾かない自分は『日野香穂子』では有り得ない。
 ……それくらいに、香穂子にとって大切な存在。
「……よかった」
 心の底からそう思い、香穂子が溜息と共に呟くと、呆れたように土浦が笑う。
 ……その笑顔が何だか少し寂しげに見えて、香穂子は自分を見つめる土浦の眼差を、上目遣いに見つめ返す。
「土浦くん……?」
「香穂……お前さ」
 香穂子の言葉尻に被せるように、土浦の静かな声が響く。思わず言葉を呑み込んだ香穂子に土浦は尋ねた。

「お前が、無理をするのは。……もしかして、俺のせいか?……」



「寝不足とビタミン不足。……慢性的な疲労もあるのもしれないわね」
 一通り香穂子の様子を診た保健医は、不安げに様子を伺っていた土浦にそう告げた。
「はっきりしたことは、やっぱり病院できちんと検査をしてみないと何とも言えないけれど。……頑張り屋さんなのは感心だけど、何事もほどほどにしないとねえ。コンクールも終わったのに、どうしてそんなに頑張るのかしら」
 不思議そうに首を傾げた保健医の言葉に、土浦は自分の記憶の中の何かが引っ掛かるのに気付く。

(……「頑張れ」って)
 決して無理強いをさせたいわけじゃなく。
 限界以上の努力を促したいわけじゃなく。
 ただ土浦が知っている香穂子は、いつだって土浦に『頑張っている』姿だけを見せていたから。
 その言葉を告げるのは、何気なかった。
 特別に深い意味は、込めていなかった。
 それでも確かにその言葉は、香穂子に強いていたのだ。

(「頑張れ」よ)

 それは、確かに励ましの言葉なのかもしれない。
 誰かの心に暖かく響く、優しい言葉なのかもしれない。
 だがそれは、時と場合によっては、頑張れ、頑張れと、誰かの精神を追い立てるための言葉にもなるのだ。

「……でも」
 横たわったまま、土浦の顔を見つめる香穂子が不安定に揺れる声で呟く。
「私は、それが嬉しかったの」

 頑張れって。
 笑って励まして、ぽんと掌を頭の上に載せられて。
 その掌の暖かさが、心地よかったから。
 もっと、もっと欲しかった。だから頑張って。……頑張って。
 そうして香穂子は、『頑張る』ことに、際限などはないことに気付く。
 ここまでいけばいいのだという、ボーダーがない。限界は全て、自分自身が決めるもの。
 だから香穂子はいつしか、自分がどこまで頑張ればいいのか分からなくなった。どこで息を抜いたらいいのかを、見失ってしまった。
 それでも、土浦が頑張れって言ってくれるうちは、どこまででも自分は頑張れるって。
 そんなふうに思っていた。


「……もう頑張れなんて、言わねえよ」
 いつだって負けない、前向きな香穂子の心根を好きだと思っていた。
 だけどそれは彼女の体調を犠牲にしてまで必要とする程のものじゃない。
 頑張らないから、怠けるというわけじゃないのだ。
 ……そう、たったそれだけのことで、自分の彼女の想いが変わるわけじゃない。

 香穂子の不調は、彼女自身では気づけない、無言の彼女の限界だ。

(もう、これ以上。)
(頑張れって、言わないで。)

「身体壊すまで無理して頑張らなくても、お前が欲しい言葉なら……ちゃんとやるよ」
 彼女が頑張っていることは、土浦が知っている。
 たとえ時折頑張っていなくたって、それは怠けてるわけでも、気を抜いているわけでもない。
 ……それでも、限界を超えてでも。
 身体を壊すほどの無理をしてまでも、彼女が「頑張ろう」とするのは。

「香穂……よく『頑張った』な」

 もう、いいんだと。
 ここで終わらせていいんだと。
 歯止めをかける言葉を。
 報いる言葉を、
 誰も、与えてはこなかったから。

 そして、他の誰よりも香穂子をここまで頑張らせてしまった土浦こそが。
 まっ先に、この言葉を香穂子に与えなければならなかった。

「別に、嫌だったり、辛かったりしたわけじゃないの……」
 涙に揺れる声で香穂子が呟く。片腕を上げて、目を覆った。
「……ああ、分かってる」
 穏やかに、土浦が応じる。
 本当に彼女が心を壊す程に無理を強いられているのなら、おそらく土浦ももっと早く香穂子の限界に気付けたであろうから。
 彼女が彼女の限界を意識していなかったからこそ、土浦も香穂子自身も、これまで香穂子の不調に気付けなかったのだ。
「分かってるけど……もう、こんな寿命縮まるような想いはごめんだぜ」
 あの時、蒼白になってその場に崩れ落ちた香穂子を見た瞬間の、土浦の衝撃。
 土浦もその恐怖は、これまで予想はしたことがなかった。

 土浦の大きな片手が、労るように香穂子の片手を包み込む。
 それは「頑張れ」の言葉と共に与えられる掌と、同じ温もりを宿していて。

 もう、頑張らなくても、きちんと温もりを与えられる、その幸せに。
 香穂子はただ、嬉しそうに笑った。




あとがきという名の言い訳 【加筆修正:2010.6】

香穂子が何か限界以上の無理をしそうなのは、土浦か柚木が相手の時かなと思います。後は火原と加地かな?この辺りの子たちは、何やら香穂子に「こいつはこういうやつだ!」という固まったイメージを当てはめてそうな気がするので
「そう」じゃない香穂子をどんなふうに受け止めるかで、関係性が変わりそうな気がします。

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