渋滞中、停滞中

吉羅×日野

 広い高級車の中に閉じ込められた香穂子の左右の景色は、先程からさっぱり変化がない。
 視線を上げて、先の方で緩くカーブした道に等間隔で列を作る沢山の車を眺めやり、香穂子は小さな溜息を付いた。
 車内はずっと沈黙に満たされている。もう、この沈黙に戸惑いも不快感も感じないのは、香穂子が今ではこの奇妙な空間に慣れてしまったからだった。
 ハンドルを握る人間はあまり余計なことを話さない。自分の仕事の事や、好きなものの話をさせれば多少は饒舌にもなるが、基本的にそういう話題の範囲が決められた人なのだろうと思う。当たり前に昨日のテレビ番組の話題等、何気ない世間話を始められたらそっちの方が余程怖い。
(……少し、寂しいけど)
 真直ぐに渋滞の列を見る端正な横顔は、微動だにもしない。会話がないということは、今の彼は香穂子のことが眼中にないということなのだから、寂しさは持って当然なのかもしれない。
 それでも、今ここに……吉羅の隣に香穂子の存在が許されるということは、おそらく奇跡に近いような幸運だ。

 好きだ、とはっきりとは言われていない。
 現状では付き合っているとも言えないのかもしれない。……一度、そういうはっきりとした答えを求めてみたら、大人の余裕と言うのだろうか、上手くはぐらかされてしまった気がするし。
 それでも香穂子は、吉羅の側にいることを、許されている。
 ……香穂子の一方的な勘違いでなければ、多分。

(私は、この人が好きだけど)
 香穂子と吉羅の関係は、複雑だ。
 始まりは学校の理事と、生徒。
 理事として、学院の外側に向けて利点をアピールしたい吉羅にとって、香穂子という存在はおそらくは非常に利用がしやすい持ち駒で。
 そして、いわゆる同志でもある。
 人ならざるものと深い縁を持った、同じ絆を持つ稀少な存在。
 それだけでも、おそらく香穂子が吉羅の近しい人物として位置付けられる理由は充分だ。
 ……そこに、香穂子の願うような、暖かな気持ちがなかったとしても。
(……あ、落ち込んだ)
 自分の考えに勝手にへこんで、香穂子は揃えた膝の上にぎゅっと握った拳を押し付ける。

(この渋滞中の車達と、私達の関係は同じ)
 いつか辿り着きたい場所は、遠くに確かに見えてはいても、なかなかそこへはたどり着けない。
 ごちゃごちゃと沢山のものが行く先を阻んでいて、隣にいる人が一体どうしたいのかも知らないまま、先に進むことも後戻りすることもできずに停滞中。

「……気が済んだかね?」
 窓をしっかり閉めて、空調を心地よく効かせて。
 まるで別空間のような沈黙の中に、ふと降り落ちる静かな声。
 突然話しかけられたことに驚いた香穂子が、思わず俯いていた顔を上げると、まだ前方を見据えたままの吉羅が淡々とした声で告げた。
「無断で横顔をじろじろ見られるのは、あまり気持ちのいいものじゃない。私に言いたいことがあるのなら、直接はっきりと言いたまえ。……幸い、目的地はまだ遠い。君の話を聞くくらいの時間の余裕はある」
 事務的な物言いが、落ち込んでいた香穂子の勘に触る。
 だが、「そもそも誰のせいでこんなに落ち込まなきゃいけないと思ってるんですか」と叫び散らしてやりたいのを、香穂子は必死で抑え込んだ。
(……吉羅さんのせいじゃないんだから)
 曖昧な関係に苛立つことも、これ以上は動けないことに不安になって、落ち込むことも、ただ、香穂子が彼を勝手に好きなだけで。
 別に彼に責任はないのだから。
「……私と吉羅さんの関係も、正しく今みたいな状況だなって思っただけです」
 ……それでも、唇からこぼれる言葉が愚痴めいたものになってしまうのは。
 ストレスを少しでも発散するということで、容赦して欲しいところだけれど。
「渋滞にて停滞中、か。……君はなかなか面白いことを言うな」
 どこが気に入ったのかは分からないが、香穂子の言葉を実に楽しそうに聞き、吉羅は前方を見据えたまま、唇に小さな笑みを刻む。
 その珍しい笑顔に香穂子が思わず視線を奪われていると、しばらくは動くことがないだろうと思っていた車体が、ほんの数メートル前へ動いた。
「だが、今はまだ自由に動ける状態でなくとも、渋滞というものは必ず解消される。……時間はかかっても着実に前へと進む」
 淡々と、まるで香穂子の苦手な物理の教科書を朗読するみたいな口調で、吉羅が告げる。
 突然饒舌になった吉羅に、怪訝に眉根を寄せた香穂子に、ようやく吉羅が初めてちらりと視線を投げた。

「君には、それが不満か?」

 香穂子は、小さく息を呑む。
 ……吉羅が何故か、ひどく嬉しそうだったからだ。

「不満……っていうか」
 吉羅から視線を反らし、おどおどと香穂子がまた揃えた膝の上に押し付けた自分の手の甲に視線を落とす。
 不満……はあるのかもしれない。
 恋人とも、ただの学校の理事長と生徒とだけでも、済ませられないこの関係。
 だけどそれと同時に、香穂子は確かに安堵してもいたのだ。
 動く可能性を残したまま、動かないこの関係。
 いつの間にか慣れ親しんだ、ぬるま湯のような心地よさ。
 気を許しているからこその、穏やかな沈黙。
 ……その状況全てが、多分今の香穂子には優しいから。

「知っているかね、日野くん。渋滞は確かに停滞したままなかなか前には進まない。だが、その道を熟知しているものならば、幾らでも抜け道というものがあるんだよ」
 裏をかいて、いろいろな困難、問題の中をかいくぐって。
 一足飛びに、目的地へと辿り着く術。
「……本当は、私は知っている」
 そうして、吉羅が香穂子の髪へと指先を伸ばす。髪先をくい、と引っ張られて、香穂子が思わず吉羅の顔を振り仰いだ。
「……試してみるかね?」

 熱っぽくて、甘い色を宿した。
 強い意志を持つ瞳。


「い、い、い……いりません!」
 真っ赤になる香穂子が、思わず助手席のドアにべたっと背中を貼付けて、甲高い声を上げる。「そうかね?」とあっさり納得する吉羅は楽しげに笑いながら、指先に絡ませていた香穂子の癖の強い髪を空中へと解放する。
「ならば仕方ないな。もう少し、今のままで堪えたまえ」


(なななな、何? 何、今の!)
 顔が熱くて、耳元で鼓動の音がうるさい。
 香穂子は冷たいガラス窓にもたれかかって、肌に触れる場所の冷ややかさに救われながら、視線だけをちらりと吉羅の方へ向ける。
 その横顔は、何事もなかったかのように涼しげな表情で前方を見据えていて、ただハンドルを握る指先だけが、楽しげに香穂子が知っている情熱的な音楽の形を刻む。

(……本当は)
 本当は、待たれているのかな。
 突然すとんと、そんな気持ちが香穂子の心の中に落ちて来た。
 善くも悪くも、吉羅は大人で、肩書きや立場がある人で。
 きっと、香穂子みたいな幼い人間に、簡単に溺れていい人じゃない。だから。
(私が大人になるのを、待っててくれてるんだって。……思ってても、いいのかな)
 曖昧に、上手くはぐらかされたあの日の答えも。
 本当は、そんな想いが内包されていたのかもしれない。
 あの時の吉羅も確かに。
 ……今日の、『あの』瞬間の吉羅と、同じ熱を持った眼差をしていたから。


 渋滞中の車の列は、もどかしいほどゆっくりと。
 のろまな亀の歩みで、それでも確実に前方へと進む。

 そんな渋滞中の車の中で、停滞したままの関係性が。
 きっと現在の吉羅と香穂子が持つべき、正しい距離なのかもしれない。




あとがきという名の言い訳 【加筆修正:2010.6】

渡瀬の書く吉日創作って甘いらしいんですが(友人談)私的には甘いのが書きにくいキャラだなって思います。
ただ一旦タガが外れたら、どこまでも暴走してくれそうなキャラクターだとも思うのです。故に、ギャップ満載な極甘理事創作を書いてみたいです(笑)

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