……いつからだろう?
そんな原色ばかりの綺麗な色に彩られた世界に、複雑な陰りが落ち始めたのは。
あの子の姿が見えなくなると、とても寂しくて。
自分以外の誰かに話しかけたり、笑ったりしている姿を見ると、何だか胸が痛む。
……誰とでも仲良くなれた方が絶対に楽しいよって、彼女に教えたのは他でもない自分なのに。
楽しいこと、嬉しいこと。
単純明快の正の感情だけに満たされていた火原の世界に、彼女に出逢って、惹かれ始めた頃から比例するように現れた陰り。
楽しいのに寂しくて、嬉しいのに胸が痛い。
……でも、そんな複雑な感情すらも、全てが愛おしいと思えたんだ。
「私、そんなに先輩を不安にさせてたんですか?」
そんな情けない本心を少しだけ曝け出せるのも、今は微かな声でもきちんと届く……手を繋いで歩ける位置に、彼女がいてくれるから。火原が話の流れで何となく白状してしまった過去の感情に、香穂子は驚いたように声を上げた。
「そりゃあ、もう」
冗談めかして応じる火原は、それでも屈託なく笑う。
……あの時の自分が不安で恐ろしく思っていた、それまでは火原が知ろうともしていなかった複雑な感情が、恋をすれば当たり前に生まれるものだったのだと、今ではもう知ったから。
「でもさ、それは香穂ちゃんが悪いとかじゃなくってさ、……つまりおれが、あんまり子供過ぎたってことなんだよね……」
先輩だから頼って欲しい。彼女の力になりたい、だなんて。
自分の中にある力の量も質も知らず、単純にそう思えたことそのものが、火原の幼さだった。
「支える」なんて、本当は簡単には言えない。
正しい意味で誰かの力になるなんて、一朝一夕で出来ることじゃない。
香穂子相手に恋に落ちた自分は、香穂子を支えるどころか、自分自身の気持ちに向き合うだけで精一杯だった。
「今考えると、ホントおれってダメだったなあって思うよ」
がっくりと肩を落とす火原に香穂子は笑って、彼の暖かい手を握る自分の指先に、ほんの少しの力を込めた。
「……でも、そんな火原先輩が側にいてくれただけで、私が支えられていたのも本当です」
いつだって、屈託なく。
太陽みたいな明るい笑顔で話しかけてくれる火原の存在が、あの八方塞がりだったコンクール中に、どれだけ香穂子の心を救って、支え続けてくれていたのか。
火原が自分のトランペットや自分自身の魅力をあまりよく自覚していないように。
多分、そんな事実も彼は自覚していない。
「駄目だったなあって反省するのもいいけど、火原先輩はもう少しそういう自分の良いところに、ちゃんと自信持っちゃって下さい」
火原自身が「幼い」と揶揄する部分こそが、おそらくは火原が持つ一番の魅力的な部分で。
……香穂子が一番、彼を好きだと思う部分。
時間は待ってくれなくて。
火原も、もちろん香穂子だって、立ち止まってはいられなくて。
取り巻く環境は生易しいものばかりじゃないから、きっとたまには壁にぶちあたって、否応なく身を削られて。
そうして変化して、成長していかなければならない部分もあるだろうけれど。
それでも、どうしても、変わっては欲しくない部分がある。
香穂子が好きになった、……救われた、火原らしい天真爛漫さを。
大人になっても、……楽しい、嬉しいだけじゃ解決しない、複雑な感情を覚えてもいいから。
心の中心にある火原らしい純粋さを穢さないでと、……そう、願うことも。
きっと本当は、香穂子の幼い我侭にしか過ぎないのだろうけど。
「……うん」
香穂子と同じ強さで。
握り返される、暖かな手の感触。
香穂子が見つめる視線の先で、香穂子の好きなあの屈託ない笑顔が。
……ほんの少しだけ、言葉で表現出来ない複雑な感情を織りまぜて。
故に、単純明快でない、深い色を讃えて。
……咲き誇る。
「香穂ちゃん、あのね。おれはさ……おとなになりたいんだけど。きみを、ちゃんと支えられるようになりたいんだけど。でも、たぶん、きっと本当はあんまり変われないと思うんだ」
そんなふうに火原が、火原自身を客観的に見れるようになっていることが、もう既に火原が変わっている証だと香穂子は思うのだけれど。
(……分かってないのかな?)
結局は、それが多分火原らしいということなのだろうけど、と香穂子は心の中で笑う。
「……でも、きみが側にいてくれれば。おれは、おれに足りなかった感情も、ちゃんと知っていけるよ」
だから、ずっと。
おれの側にいてよ、と火原は願う。
時の流れに。
環境の変化に。
きっと、少しずつ変わっていく自分が。
流されてしまわないように。
自分自身を見失わないように。
本当の火原を、一番理解しているはずの香穂子に、ずっと側にいて欲しい。
「……はい」
火原の願いに、目を見開いた香穂子はどこか恥ずかしそうに頬を染め。
それでも次の瞬間には、綺麗に笑って、大きく頷いてくれた。
後になって、深読みすると何だか将来まで約束させちゃうみたいな願いごとだったなあと思い返して。
恥ずかしくて、部屋の中でじたばたもがいて、隣の部屋の兄に「和樹、うるさい」と壁越しに怒鳴られることになるのだけれど。
香穂子が、あまりにも躊躇いなく、幸せそうに微笑んで頷いてくれたから。
そのことが、火原もただ嬉しくて。
反射神経で香穂子の唇にキスをして、革靴の爪先にすねの辺りを軽く蹴られた痛みも、何だかひどく幸せに想えた。
……そんな、ある日の放課後。
あとがきという名の言い訳 【加筆修正:2010.6】
最後の方がいかにも火原っぽいような気がして、ちょっと気に入っていたりします(笑)
火原は火原らしいとこをなくさずに、成長してくれればいいですねー。……18歳の高校生男子に成長しろというのもおかしな話(セルフ突っ込み)


