分不相応の祈り

加地→日野

 それが、決して自分一人の為だけに奏でられることのない音色だと。
 最初から、知っていたはずなのに。




 自他ともに認める精緻さを誇る聴覚は、校舎中に溢れる沢山の雑音の中から、正しく愛おしい音の欠片を拾う。その音に導かれて、もっと近付きたいと願ってしまうのは、この音に出逢った瞬間から加地に植え付けられている逃れようのない感情で。
 微かな音を辿りながら、その発信源に近付いて行くと、森の広場の中心に当たり前のように彼女がいる。もう既に観衆が彼女を取り巻いていて、加地が辿り着いたと同時に、終着に差し掛かった音楽が途切れ、歓声とともに拍手が沸き起こった。
 もちろん、人だかりの一番外側から加地も惜しみない拍手を贈る。目を閉じて演奏に集中していたらしい彼女は、我に返ったように顔を上げ、その称讃に戸惑ったように辺りを見渡すと、おずおずと、それでも丁寧に頭を下げる。再び身を起こして、ぐるりと自分を取り巻く人だかりに何気なく視線を送って。
 そしてその瞬間、加地の心臓が一つどくんと大きな音を立てる。
 彼女……日野香穂子が加地の存在に気付いて、加地が佇むその位置で巡らす視線を止めたからだ。
「加地くん!」
 知った顔を見つけて安堵したように笑った彼女の唇が、加地の名前を形作る。

 たったそれだけのことがどれほどに加地の心を揺らして、その胸を甘く、そして苦いもので満たすのかをきっと彼女は知らない。


「びっくりしたあ。いつの間にあんなに集まっちゃったんだろう……」
 ケースの中に丁寧にヴァイオリンを片付けながら、溜息混じりに香穂子が呟いた。
「仕方ないよ、だって日野さんのヴァイオリンだもの」
 加地は笑いながらそう言って、彼女が帰り支度を整えるのを待っている。あの後、躊躇なく加地に駆け寄って来た彼女に「もう帰るなら、途中まで一緒に帰らない?」と誘われたからだ。
 もちろん、そう誘われたら加地に断わる理由はない。陽が落ちるのが早い昨今は、彼女を一人で帰すことは躊躇われるし。
(……ああ、違うよね。本当は)
 誤魔化そうとする本心を正しく理解して、加地は苦笑しながら緩く握った拳を額に当てる。違うんだろ、と己自身に問う声を、押し付けるように。
(本当は……僕がただ、君の側にいたいだけだ)

 知っているんだ。
 もう、充分に分かってる。
 最初から兆候はあったのだから、今更誤魔化しようもない。
 彼女を知るたびに、その屈託のない柔らかな心根を知るたびに。
 止め処なく、抗いようもなく、加地は香穂子に惹かれていく。

 この想いは叶わないと、知ってるのに。
 自分では彼女に相応しくないと、充分に分かっているはずのに。
 そんな己への戒めは何の役目も果たさぬまま、ただ彼女へと向かう想いが日毎に深まっていく。

(君が、僕を受け入れるからいけないんだ)
 彼女に自分という存在を拒絶されれば、たとえ傷付いたとしても、その傷は浅いままだった。
 いっそのこと、香穂子がもっと自分のヴァイオリンを誇示して、傘に着るような人間だったらよかった。
 そうすればきっと、愛おしいのはヴァイオリンの音色だけなんだって。
 そんなふうに割り切ることが出来たはずのに。

 だが日野香穂子という女性は、ある意味加地の予想通りの人物で、ある意味全く予想外の人物でもあったのだ。

 加地が想像した通りの、ヴァイオリンの音色そのままの、朗らかで柔らかく、暖かな人間で。
 加地が想像していたほどには、自分と他人の間に壁を作らない人間だった。
 勝手にファンだと公言して、目の前に現れた加地のことですら彼女は難無く、受け入れてしまった。

 最初に彼女の奏でるヴァイオリンの音色に抱いた愛おしさをそのまま向けることができる。
 そんな、加地が愛すべき女性だった。


 そんなふうに笑わないで。
 屈託なく、話しかけないで。
 躊躇わず、近寄らないで。
 当たり前のように、僕の音楽を。
 ……僕の存在を受け入れないでいて。

 彼女が加地に与えるその全ては、加地の心に容赦なく幸せの欠片を降らすもので。
 だからこそ余計に加地は心のどこかでそれを拒絶し、ただそんなふうに祈る。

 そうでなければ、胸に芽生えてしまったこの彼女へと向かう想いが、きっと抗いようもなく、加地の全てを壊してしまう。

 どうか笑いかけて。
 君の心に浮かぶ想いの全てを、全部話して聴かせて。
 誰よりも僕の側にいて。
 ただ、僕を受け入れて。
 少しでも君の力になれるように……そのための力は惜しまないから。
 僕の音楽で、君を支えさせて。
 僕の存在を、君の心の中で息づかせて。

 僕だけのために、あの音色を奏でて。
 僕だけを見て。
 ……どうか、僕だけを愛して。

 加地の心を徐々に侵食していく。
 身の程を知らない、贅沢な願い。


「最近、寒くなって来たよね」
 星の瞬く冬の夜空を見上げ、柔らかく吐く息で視界を白くけぶらせながら、香穂子がぽつりと呟いた。
 そうだね、と応じる加地は、自分の身体の片側に本当は届くはずのない彼女の熱を、確かに感じている。
(……君の側は、暖かい)
 加地の心の中が、どんな醜く身勝手な祈りに満たされていても。
 香穂子は変わらずそこに……加地の傍にいる。だから。


(願わずにはいられないんだって、本当は僕ももう、知っているんだ)

 今更、憧れだけじゃ終われない。
 ……どうしようもなく彼女の全てが欲しい。
 それが偽らざる、加地が己の心に抱くもの。

 香穂子に倣い、遠い夜空に散らばる小さな星を見上げて加地は、ただ祈る。


 この身を否応なく動かして、容赦なく心を灼く。
 そんな、分不相応の祈り。




あとがきという名の言い訳 【加筆修正:2010.6】

日野ちゃんを想いつつうじうじ(←!)してる加地って何だか標準装備くさくて書きやすいです(笑)
本来はこのタイトル「身分不相応」にするべきなのかとも思ったんですが、雰囲気で、何となくこのままで。

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