部活中にゴール前で数名と接触し、擦りむいた膝の治療に土浦が保健室を訪れると、先客が椅子に腰かけていた。土浦の呼び掛けに振り返った日野香穂子は、驚いたように目を丸くして、「土浦くん」と声に出さずに呟いた。
常駐の保健医は不在らしく、身を屈めて自身で治療を施していたらしい香穂子の膝も、土浦と同じように派手に擦りむいていた。
「何だよ、転びでもしたのか?」
尋ねると、香穂子は焦ったように膝小僧を掌で隠しながら身を起こした。
「う、うん。まあ、そんなとこ。もしかして、土浦くんも?」
「そ。ゴール前の混戦で味方と接触しちまってな。怪我は見ての通り大したことないんだが、血相変えた佐々木に、さっさと治療してこいってグラウンドから叩き出された」
「あはは、佐々木くんらしいね」
容易に想像できるテンパりやすいクラスメイトの反応に、香穂子は笑った。
すでに消毒を終えていた香穂子は、傷口に手早く絆創膏を貼りつけると、土浦に場所を譲るために隣の丸椅子に座り直した。
入れ替わるように土浦が腰かけた椅子には、香穂子の温もりが仄かに残ったままだった。意識しないように心掛け、土浦はやや乱暴に消毒用の器材一式を漁る。ここに来る前に傷口は洗っていたが、擦り傷からは新しい血が滲んでいて、自分の傷でもないのにそれを目にした香穂子が痛そうに顔をしかめた。
「私、やろうか?」
「いや、大丈夫だ。慣れてるしな」
運動部に所属しているとこの程度の怪我はしょっちゅうだ。おそらく土浦がピアノ弾きだということが知られていなければ、唾でもつけとけと放置される程度だろう。
それなのに学内音楽コンクールを経た今、サッカー部員であると同時にピアニストでもある土浦のことを、自分以上に気遣ってくれる他の部員たちに、土浦は感謝していた。
慣れた手つきで消毒を終え、土浦は身を屈めて傷口に香穂子と同じような大きめの絆創膏を貼りつける。その間一言も喋ることなく、香穂子は静かに土浦の治療を見つめていた。
ふと顔を上げれば、自分と比べて随分と小さい香穂子の膝に貼り付けられた、自分と同じ絆創膏が視界に入る。そして土浦は、この保健室で香穂子を目にした時から、ずっと自分の心の中に燻っていた疑念に気付く。
香穂子は確かにどちらかと言えば活発な方だが、楽器を持ち歩いている以上、楽器に悪い影響を与えるような、おろそかな行動はしない。最初にに土浦が転んだのかと尋ねた時に、歯切れの悪い微妙な反応をしたことも引っかかった。
「日野……お前さ」
言いかけて、土浦は思わず言葉を呑み込む。
……先程から、どこか呆然としたように土浦の傷を見つめる香穂子の視線。それは何かを見ているようでいて何も見えていない、……そんな、虚ろな眼差だった。
土浦は何も言えないままに唇を引き結び、ただ自分が使用した治療道具を無言で片付けた。
天羽にそのことを尋ねられたのは、昼休みだった。
「あの……土浦くん。あのさ。……最近あの子、変なところってない?」
名前を言われなくても、それが香穂子の事だと分かる。
普段はぐいぐいと推しの一手で来る天羽の、珍しく奥歯に物が挟まったようなすっきりしない物言いに、土浦は不穏な空気を感じ取った。
「変なところって言われてもな……そもそも俺は日野とはクラスも違うし、アンサンブルの練習でぐらいしか顔合わせないから、よく分からない」
「だよねえ……」
困ったような表情で頬を押さえ、天羽が溜息を付いた。
「……日野に、何かあったのか?」
「う……ん、あったというか、何というか」
私にもはっきりは分からないんだけど、と前置きをして、天羽が教えてくれたのはこんな情報だった。
元々普通科から突如現れたヴァイオリニストを歓迎しない雰囲気は、音楽科の一部にあったのだという。だが、香穂子が学内音楽コンクールで、並みいる実力者に引けを取らない成績を残したことで、香穂子に対して不満を持つ者はいなくなった……かのように見えた。
だがそれは、水面下で噴出する機会を伺っていただけだったのだ。ここ最近、学院二分化の情報とともに、それを阻止するために香穂子が奮闘していることが知れ渡り、そもそも普通科と音楽科とが同等に扱われることを良しと思っていなかった連中が、香穂子に対して小さな嫌がらせを行っているのだという。
「香穂、そういうのあんまり見せる子じゃないし、正面から聞いてみても否定するの分かってるから、確かめようがなくて」
私も気を付けるようにするけど、よかったら土浦くんも香穂の様子、気に掛けてみてくれないかな?
そう天羽に頼まれて、二つ返事で承諾したのは、ほんの数時間前の事だった。
(誰かに何かされたのかって聞いてみたって、お前は否定するんだろうな)
天羽の予想は正しい。
例え、今負っている傷が本当に第三者に与えられたものだとしても、香穂子はそれを土浦たちに簡単に吹聴したりはしないだろう。
嫌がらせをされたりするのは、自分が不甲斐ないせいだ。
そんなふうに、悪いことを全部自分の責任にして、躊躇わずに呑み込んでしまうのだろう。
「……え?」
行動は、無意識だった。
俯いた香穂子の頭に、土浦は片手を乗せる。
ぽんぽん、と軽く叩いて、驚いたように顔を上げた香穂子の視線を受けながら、くしゃくしゃとその髪を掻きまわした。
「わ、わわわ、何? 土浦くん」
慌てる香穂子から手を放し、土浦はじいっと香穂子を見つめる。
きょとんとした顔で土浦を見つめ返した香穂子が、しばらくして小さく笑いながら手櫛で乱れに乱れた自分の髪を直した。
「もう、いきなりなんなの?」
彼女と出逢って数か月。
たったそれだけの期間でも、彼女という人間のことは土浦なりに理解しているつもりだった。
弱音を吐くことはなく、ただ前だけを向いて。
彼女はこれから自身の目の前に立ちふさがる、全ての壁を越えていくだろう。
ならば自分は傍にいて、そんな彼女を支え続けよう。
……もちろん、自分に何ができるかなんて分からない。
それでも、自分が隣にいることで。
少しでも辛いことから目を反らさせることで、彼女を笑顔に出来るのなら。
「日野、お前もう帰るのか?」
保健医の帰りを待って保健室を出た土浦が、後について出てきた香穂子にそう尋ねる。ヴァイオリンケースを抱え、小さな痛みにわずかに顔を歪めた香穂子が、突然の土浦の問いに戸惑った様子で頷いた。
「うん、もう練習するほど時間ないし、そのつもりだけど……」
「じゃあ、着替えて来るから少しだけ待ってろ。家まで送る。一緒に帰ろうぜ」
「ええっ」
突然の申し出に、香穂子は驚いたように目を見開いた。「どうしちゃったの土浦くん」と呟く香穂子に、土浦は笑って手を振った。
「何でもいいだろ。15分後に正門でな」
知らない誰かの悪意に彼女が傷つけられるのなら。
そうならないように傍にいて、他の誰でもないこの自分が、彼女のことを守りたい。
……そう願う気持ちにも、嘘はないけれど。
(お前を守るという名目で、ただ俺が、お前の隣にいたいだけなのかもしれない)
そんな理由を建前にして。
ただ、真っ直ぐに生きる彼女のそばにいて、並んで共に歩いていきたい。
……心の底から自分が願っていることは。
もしかしたら、たったそれだけの、単純なことなのかもしれない。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:14.11.16 加筆修正:16.7.30】
土浦のキャラソンを聞きながら、結構内容が二転三転しました。一番オードソックスなパターンに落ち着きましたが、掲載時には練り方が足りてなくて、「もうちょっと……!もうちょっと何かあるだろ!表現の仕方ってもんがさあ!」って自分自身にもやもやしてたりしました。
結構がっつり修正入れてしまった……でも、ちょっとは読みやすくなったはず。……なんですけどね、自分的には(笑)


