兄たちも妹も、そして自分も。確かに幼い頃から音楽というものには触れて来たけれど、それは決して自分たちの人生になりうるものではなかった。
祖母が習い事として柚木家の子供たちが音楽を嗜むよう教育していたのは、おそらく楽器が演奏できるということが、いろんな意味で『便利』だからだ。
ピアノを始めた頃、自分が音楽というものに傾倒していくのを実感していた。自分の指先から無限の世界が生まれ、広がっていくのが興味深かった。習得する曲の難易度は上昇し、そのことを周囲の教師たちが絶賛した。ピアノを弾くことが楽しかったし、自分の音楽を評価されることが嬉しかった。
だが、その実力が兄たちを凌ぐことが分かった時、柚木はピアノを辞めることを余儀なくされた。
(ピアノを極める必要はありません。音楽は、嗜み程度でよいのです。兄たちを超えることは決して許されません)
幼い頃は、まだ怖いものを知らなかった。
世の中にはどうしようもないことがあるということを知らなかった。
その無知故に、真正面から祖母に反発した柚木に、祖母はきっぱりとそう言ったのだった。
祖母にとって音楽というものは、自分の周囲に存在する人間たちとの関係を円滑にするための材料でしかなかった。乞われた時、躊躇いなく演奏することが出来ればこれほど印象がいいことはない。……ピアノの代わりに、持ち歩くことが可能なフルートという楽器を選ばされたことも、その一環ではないかと穿って見ていたこともあった。
柚木家にいる限り、音楽というものは周囲との関係を円滑にするための手段の一つであって、人生を費やすほどの価値はない。
たとえ、そうではないと抗ってみたところで、すべてのことは徒労に終わる。
音楽を専門的に学ぶのは高校卒業まで。幼い頃からずっと、そう植えつけられて来た。その先は、柚木家の伝統を壊さず、穢さず、存続と繁栄のための糧となる。
それが唯一柚木に許された柚木の生きる道だった。
……それなのに。
柚木は、閉じていた目を開く。
目の前には、ヴァイオリンを弾く一人の少女がいる。
何の後ろ盾も保証もないのに、『楽しい』という心ひとつで両足を地に付けて立ち、柚木の世界を心地いい音で満たしていく存在。
この少女との出逢いが、予定されていたはずの柚木の未来を今、変えようとしている。
抵抗すること自体が無駄だと思えていた祖母を相手に、生まれて初めて柚木は自分の意見を押し通した。祖母が望む名の通った経済学、政経学に強い私立大ではなく、現在通っている高校の付属大学への進学を第一志望に選んだ。
……柚木の音楽を、柚木自身が納得いくまで続けていくために。
(俺の中に、こんな力が残っているとは思わなかった)
予定した道筋を外れようとする柚木に対して、祖母は当然激高した。
感情に任せて柚木の頬を叩き、ふざけるのもいい加減にしなさいと罵声を浴びせられた。
それでも祖母の言葉を頭からはねつけるのではなく、根気強く呑み込んで、それでも最後まで折れなかった柚木が、最後には祖母を説き伏せた結果となった。もちろん、心の底から納得させたわけではない。柚木の決心が揺らがないことを悟った祖母が、勝手にしなさいと柚木を諦めただけだ。
祖母は折れた。半ば見捨てられた形でありながらも、柚木はもう少しの間だけ、自由に音楽に触れられる。それは柚木が生まれて初めて祖母から得た勝利だった。
一つの選択肢を得たのだから、もういっそこのままでいいと思うこともある。少しだけ音楽に触れる時間を延ばして……気が済んだのなら、また祖母の望む道へと帰る。それならば、祖母はもう少し穏やかに柚木のことを見守ってくれるかもしれない。
だが、それが不完全な勝利であることは柚木自身が一番よく分かっている。
「どうせなら、すっきりと気持ちよく『完勝』したいしね」
「うわ、また黒い発言」
ぽつりと呟いた柚木の言葉に、律儀に香穂子が反応した。
おそらく彼女は柚木の真意を知らないままのレスポンスだろうけれど、それでいいと柚木は思う。
柚木の中で、強固に安定していたものを、彼女という存在は確かに壊してしまった。
おかげで柚木はほんの少しだけ自由というものを手に入れることが出来たけれど、それが壊してしまったものよりも有意義なものなのかどうかはは、本当のところは柚木にもよく分からない。
ぬるま湯のような安寧よりも、保証のない、重圧にまみれた希望を柚木に選ばせたのは、確かにこの目の前にいるちっぽけな存在だ。
だが、この選択を良しとするか否かは、全てこれからの柚木自身の生き方にかかっているのだ。
じっと柚木が香穂子を見つめる。
急に正面から真顔で見つめられ、香穂子は反射的に後ずさる。「な、何ですか?」と問う香穂子を、微笑んだ柚木は片手で手招いた。
「……傍においで」
香穂子は、ヴァイオリンを抱えたまま不安げに眉根を寄せる。しばらく待っていると、おそるおそる柚木の目の前に近寄って、そこに立ち尽くした。
そんな彼女の細い体を、柚木はそっと両腕を伸ばして、抱きしめる。
……柚木の手の中に、彼女という存在を手に入れる。
香穂子を抱き締めて、そっと目を閉じて。
先ほどまでこの空間に溢れていた彼女の音を思い出す。
与えられた道を外れることは、本当は少し不安で、怖いとも思う。
それでも彼女の音。そして自分の音に満ちあふれた世界を、これほどまでに愛おしく想う。
その感情は、ずっと何かが欠けたままだった柚木の心の飢餓を埋めてくれる。
彼女出会う前の自分が知り得なかった、優しく暖かな幸福感。
……腕の中に在るこの温もりが、柚木の選択が間違いではないと教えてくれている。
(それに、本当の意味で俺が『自由』にならないと)
(お前がお前自身のことを責めてしまうだろうしね)
一度は諦めかけていた自分の人生の事ならば、いくらでも中途半端に投げ出せる。
だが、その延長線上で彼女が傷付くことがあるのなら、全力でそれを阻止するための意地が柚木にはある。
「大概、ヤキが回ったものだね、俺も」
自嘲的に笑って呟くと。
柚木の心の中を、理解しているのかそうではないのか。
柚木にされるがままの香穂子の指先が、労わるようにそっと柚木の長い髪を撫でる気配がした。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:14.11.22 加筆修正:16.7.30】
柚木は音楽が好きなんだろうけど、音楽だけで満たされてくれる子ではないと思うので、このお題は難しかったです。
お題から何となく浮かんでくる、満たされた感じが出せてたらいいなあとか思いますが……。
私的に香穂子にナデナデされる(笑)柚木は書いてて楽しかったです。


