放課後立ち寄ったカフェ。
柚木が妹の雅にせがまれてよく利用するカフェだが、高校生が学校帰りに気軽に立ち寄るには、少しだけ敷居が高い、高級なカフェだ。
柚木はこういう場合、決して香穂子には財布を開かせない。
最初に柚木がここに香穂子を案内した時、香穂子は自分で支払いができないような場所には行けないと抵抗していたが、そこは柚木が手を替え品を替え、香穂子の反論を片っ端から叩き潰し、ここを二人の馴染みのカフェにすることを納得させた。
メニューの質にしろ店内の雰囲気にしろ、柚木が許容できる基準をきちんと超えているというのは勿論のこと、何よりも二人の生活圏内からそう離れてはいないのに、値段設定の高さから、星奏学院の生徒がほとんど気軽に立ち寄ることができないのがいい。
柚木は柚木家に合わせた生活を余儀なくされるから、馴染みのカフェとは言いつつも、実際に立ち寄れるのは、月1回ぐらいがせいぜいだ。もちろん、出て来るお茶もケーキも、味は値段に見合うだけのレベルの高さなので、そういう意味でもここを訪れるのはちょうどいいペースだと言える。あまりに入り浸り過ぎてこのカフェの味に慣れてしまっては、香穂子の舌は香穂子のお財布事情でも手軽に入手可能なコンビニスイーツの味に満足できなくなってしまう。
最多でも月に数度このカフェを訪れて、奥の方の決まった席で香穂子と柚木は穏やかな時間を過ごす。それは二人にとって、他の何にも代えがたい至福の時だった。
この穏やかな時間の中に、香穂子が持ち出してくる話題はいつも唐突で、そしてくだらない。以前は確か、森の広場のシロさん(仮名)が産んだ子猫の父親は、いったいどのオス猫だろうかという話だった。……あまりにくだらなかったので、小一時間ほど延々と遺伝についての講釈を聞かせてやったら、それ以来香穂子は猫の話を柚木には一切しなくなった。
その直後に行われた中間考査で、香穂子の生物の点数が普段より10点ほど加算されたのは余談である。
「……寒くなってきたからね」
香穂子の問いかけに、どう答えてやろうか熟考の挙句、柚木は丁寧に淹れられた琥珀色の紅茶が満たされたカップを口元に運びながら、そんなふうに答えた。
柚木の答えを待つ間、自分のフルーツロールケーキの表面をフォークで突いていた香穂子は、しばらく柚木の答えを反芻するように黙り込み、やがて眉間に皺を寄せて柚木を見上げる。
「それ、答えになってなくないですか?」
「おや、気付いたの。どうでもいい質問だから、どうでもいい答えを適当に言っておけばいいと思ったのに」
にっこりと笑って首を傾げた柚木に、ヒドイ、と香穂子が頬を膨らませる。苛立ってテーブルを叩き出さないあたりは、柚木の教育がきちんと行き届いていた。
「結構真面目に聞いてるのに……」
「じゃあ何でお前がそれを聞いてきたか当ててやろうか? ……世の中の通説では、手の冷たい人は実は心が暖かい人だということになっている。つまり逆説では手が暖かい人は心が冷たい人だということになるわけだ。だけど、心配しなくても大丈夫だよ、香穂子。誰に言われたか知らないけれど、その通説が活きるのはある程度成長した大人に対してであって、子ども体温に関しては例外だから」
さらさらとまるで台本を読むみたいに澱みなく告げられて、またそれを理解するのに数秒間香穂子が細かい瞬きをしながら黙り込む。やがて、悔しそうにテーブルに突っ伏して、うう、と低く唸った。
「私の手があったかくて、それを友達に心が冷たいからだって言われたの、あの質問だけで何でわかるんですか……?」
そして暗に子どもって言った……!と増々香穂子が拗ねる。そんな香穂子に、柚木は「知らなかったの?」と楽しそうな笑みで告げる。
「お前がそれほどに単純で子どもだってことだよ。……たかだか冗談で言われた通説を、いちいち真に受ける程度にはね」
何か反論をしようと、抗議の色を含めた眼差しを香穂子が柚木に向ける。涼しい顔でそれを正面から受け止める柚木に、結局香穂子は何も反論できずに、悔し紛れに目の前のロールケーキを完食することに、ただ意識を集中することにした。
いつものように体よく柚木にレジ前から追い出され、先に店を出た香穂子は、程よく適温に調整された店内から突然冷え込んだ外気に晒され、小さく体を震わせる。日中は過ごしやすい気候だが、陽が落ちると途端に気温が下がる。香穂子を追うようにカフェの扉から現れた柚木が、無意識のうちに身を縮こまらせていた香穂子を見つめた。
夕方は、やっぱり少し冷えますね。
そんなことを香穂子が言う前に柚木の片手が伸びてきて、香穂子の手を掴まえた。軽く指を絡めるようにして繋がれた柚木の手が、思いがけず強い力で香穂子の手を引く。柚木に先導される形で柚木と香穂子は、夕暮れの街を歩き始めた。
柚木は何も言わない。
ただ、繋がれた手は暖かく、意外なほどに優しかった。
(そういえば、手を繋ぐのって初めてだ)
慣れない感覚に、ふと香穂子は柚木と手を繋ぐという行為が初めてであることに気付く。彼と付き合い始めてそれなりに時間は経っているのに、ある意味恋人同士としては初期的なこの行為を、自分たちは通り過ぎていなかった。
香穂子と柚木の関係は、別に隠さなければならないものではない。
むしろ、公にしてしまった方が、いろいろと都合のいいことも分かっている。
それは主に、柚木を取り巻く女子生徒たちと、学内音楽コンクール以来、香穂子という存在の魅力を知った男子生徒たちに対しての牽制として。
それでも香穂子という存在が、柚木家……特に柚木の祖母には受け入れられない存在であるだろうことは容易に想像がつく。
柚木は香穂子を手放す気はないし、香穂子も柚木の傍にいるためにどんな困難が用意されていても持ち前の負けん気と根性で立ち向かう気ではいるけれど、そのために必要な準備は、いろいろとあるもので。
……自然、傍目に恋人同士と分かってしまう行為を避けていたのだと香穂子は気付く。一緒に歩くことも、カフェでお茶をすることも、まだ先輩と後輩としての交流だと誤魔化せるボーダーラインだ。
だが人目がある場所で手を繋ぐという行為は、ただの先輩後輩の間柄と誤魔化すには、行き過ぎているから。
「……お前の事だから、どうせ考えてたんだろう?」
香穂子の心の中の葛藤など体よく無視で、楽しそうな笑みを浮かべる柚木が、ちらりと香穂子のことを振り返る。
「何を、ですか?」
「さっきの話の続きだよ。……お前は俺の手がどちらだと思ってたの」
手の冷たい人は心が暖かく、手が暖かい人は心が冷たい。
それは、繋いだ手からわかること。
柚木の手は、香穂子が想像していた通り冷たいばかりの手ではなくて。
でも、香穂子の子ども体温を上回るほど、熱くもなくて。
絡めた指は、男の人にしては細くて長いけれど、意外に骨ばっていて、そういうところはやっぱり男の人の指で。
何よりも、香穂子よりも随分と大きな掌で。
香穂子を導いてくれるその力は、思っていたよりも力強い。
「……柚木先輩の心が冷たいかどうか、それはよく分かりませんけど」
意地悪な事ばかり言うかと思えば、こんなふうに、突然優しくなったりする。
そんな柚木と繋いだ手から分かる、唯一のことは。
「でも、私のことを大切に想ってくれてるのは、ちゃんと伝わってます」
楽器を扱う大切な指を、壊さないように。
それでも、決して離れないように。
強く優しく繋がれるその手を。
とても好きだと香穂子は思った。
「……お前にしては、上出来」
満足そうに笑う柚木が、もう一度しっかりと握り返してくれるその手を。
もう少しの間、離さないで一緒に歩いていられたらいい。
そんなささやかな幸せを、こっそりと香穂子は願った。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:14.11.22 加筆修正:16.7.30】
前半のカフェの会話は書いてて楽しかったです。ちなみに、どこかで言ったこともありますが、私も手は暖かい方ですね。でも最近冷えることも多くなって、年取ったなあ(どうでもいい)。
あ、私は多分心が冷たいですよ!(更にどうでもいい)
初書きが多い3キャラのお題の方に目が向いていましたけど、柚木に来たお題は意外に柚木では書きにくいものが多かったです。
執筆希望者は多かったのに、お題1つに集中したのはそのせいか……orz


