生い茂る木々に囲まれ、あまり人目につかないこの場所が、加地と香穂子が二人で練習をする時の定番の場所だ。
もちろん練習室のように防音をされているわけではないから、ここで自分たちが練習をしていると音は周りに筒抜けなのだが、香穂子の音に惹かれて練習風景を覗きに来る学院生たちを、練習に夢中で気が付かない香穂子に代わり、隙のない笑顔で加地が追い払うため、実質この場での時間は、貴重な二人きりの時間になる。
これが加地の個人的な練習であるならば、こんな解放された空間は選ばない。加地の演奏だけならば、それは衆人環視の中で披露するには稚拙なものだから。
加地自身がどうしても覆せない自己判断を、香穂子ちゃんと理解していて、加地が嫌なら無理に人の耳に届くところで練習しなくても構わないと言ってくれる。
加地くんが楽しんでヴィオラが弾けるなら、私はそれでいいんだから。
でもそれは、香穂さんのヴァイオリンを僕以外聴く人がいないってことでしょう?
……もちろん加地にとっては、それはこの上ない幸福ではあるのだけれど、あまり自分が彼女の音を独り占めしていては、未来のどこかできっと罰が当たる。彼女の音は周囲の人に平等に与えられるべき光だ。
加地が大真面目にそう伝えてみても、自分のヴァイオリンの音色の価値を理解していない香穂子は、「大げさだなあ」と苦笑するのだけれど。
「……ねえ、香穂さん。ヴァイオリンの準備をするのは、少し待ってくれる?」
その日は珍しく、加地が香穂子がヴァイオリンの準備をするのを止めた。
ヴァイオリンケースの鍵を開け、今にも茶褐色のヴァイオリンを取り出そうとしていた香穂子が、きょとんとした顔で加地を振り返った。
「別にいいけど……どうかしたの?」
加地の方はいつも通りにヴィオラの準備を整え、顎と鎖骨の間でヴィオラを挟み込む位置を調節する。うん、と小さく頷き、香穂子へと向き直った。
「今日は……香穂さんに、僕の演奏を聴いて欲しくて」
「え……」
香穂子だけの演奏を加地が求めることは数多い。だが、逆の図式はこれまで一度もなかった。たまには香穂子も加地のヴィオラをゆっくり聴いてみたいと思うのに、「君が聴くようなレベルのものじゃないよ」とやんわりと拒まれる。
加地が持つコンプレックスは、充分に承知しているから、無理に演奏させて加地が自分の音楽そのものに嫌気を覚えては本末転倒だと、香穂子はそれ以上を望めなかった。
「もちろん、香穂さんの演奏に比べればヒドイものだけれどね。それでよければ、是非香穂さんのために弾きたいんだ」
駄目?と首を傾げて尋ねる加地に、香穂子は慌ててぶんぶんと大きく首を横に振る。
「駄目なんかじゃないよ! 加地くんのヴィオラ、聴きたい!」
頬を上気させながら興奮気味に答える香穂子に、ちらりと笑って見せ、加地はヴィオラを構えて目を閉じる。
ゆっくりと、弦の上に弓を滑らせた。
(カノンだ)
曲の正体はすぐに分かった。
香穂子の好きなパッヘルベルのカノン。
有名な曲であるし、そう難しい技術が必要な曲ではない。だが、加地のヴィオラでこの曲を聴くのは初めてだった。
加地が持つ特有の華やかな音色。だが、その音の中には華やかさだけでなく、穏やかな優しさと、甘やかさが内包されていて。
加地のように洗練された耳を持つ人が聴けば、もしかしたらそれは未熟な演奏と呼ばれるものなのかもしれない。だが、この音色は確かに香穂子の胸を打つ。
いつも香穂子の傍で、香穂子のヴァイオリンに寄り添いながら。
それでも決して香穂子の前に出ようとはせず、ただ香穂子を支えるためだけに奏でられていた加地のヴィオラ。
(確かに、加地くん自身が認められないのなら、加地くんの音は加地くん自身を満足させることが出来ないものなのかもしれない)
(だけど私が聴く加地くんの音色は、いつだって優しくて……暖かいよ)
――外側だけを一生懸命飾り付けて取り繕った、全然中身のないものなんだ。
諦めたように、淋しげに微笑みながら、そう加地が評価する加地自身の音色。
だからこそ、香穂子は思っていた。
(加地くんが自分の音を好きになれないなら、私が代わりに好きになるよ)
(加地くんの華やかな音、私は大好きだよ)
……そう思うことに偽りなんてないのに。
それが、加地にとって何の救いにもならないことも、香穂子は分かっていた。
加地にヴィオラを弾いてもらうことは。
……趣味の一つでいい。彼に音楽をずっと続けて欲しいと願うのは。
加地と一緒に音楽を奏でたいと思う、香穂子のただの我儘ではないのかと、心のどこかでいつも不安だった。
(でも、違うんだよね?)
不意に胸が熱くなって、視界が滲む。
加地が今、香穂子のために奏でてくれるカノン。
その音は優しく、暖かく。加地らしく華やかで。
そして、たくさんの想いに溢れている。
ヴィオラを愛する気持ち。
音楽を愛する気持ち。
……そして、香穂子が受け取った音色が、香穂子の独りよがりの勘違いでないのなら。
そこにはきっと、香穂子のことを、愛する気持ち。
(……届いてる? 香穂さん)
幼い頃、夢見たような一流の演奏者にはなれなくても。
香穂子と同じレベルに並び立てるような音ではなくても。
それでも、加地がヴィオラを、そして音楽を愛する気持ちに変わりはない。
そして、どうせ願いはかなわないと、諦めて投げ出していた加地の想いを拾い上げて、大事に大事に守ろうとしてくれた香穂子。
……加地に、今まで知らなかった音楽へと続いていく道を示してくれた存在。
(加地くんは、ヴィオラが好きなんでしょう?)
(加地くんが理想とするような演奏者にはなれないって思っても。それでも手放させなかったくらいに、ヴィオラが……音楽が好きなんでしょう?)
(だったらそれは、私と同じだよ)
理想には届かなくて、望みどおりの音を作ることは出来なくて。
それなのに、自分の音を手放すことすらもできなくて。
口では諦めていると言いながら、みっともなく音楽に縋り付いていた加地に、香穂子は教えてくれた。
音楽を好きならば、音楽を続けていいのだと。
理想のレベルにはたどり着けなくても、一流の演奏家にはなれなくても。
誰かという存在に寄り添い続ける、そんな優しい音楽は誰にでも作れるのだと。
そんなふうに、音楽はどんな演奏家であっても拒まないということを。
そう……ただ、音楽を愛してさえいれば。
だから、この想いは。
香穂子に抱く溢れんばかりの、尊敬や憧憬や……愛情は。
等身大の自分と同じ、拙いヴィオラの音色に込めて。
香穂子がいつか好きだと言った、綺麗な曲に乗せて。
彼女の心に、きちんと届けたい。
ここ数週間、香穂子に隠れて練習を続け、完成した曲を弾き終え、加地はほうっと息を付きヴィオラを下ろす。期待と不安がないまぜになった複雑な心境で香穂子の方を見やり、ぎょっとした。
ベンチに腰掛け、加地のヴィオラを聴いていた香穂子の両目から、止め処ない涙が頬を伝って流れ落ちていた。
「か……香穂さん?」
恐る恐る声をかけると、ぐす、と鼻を鳴らした香穂子が「しまった」と、かすれた声で呟いた。
「ブラボーって言い損ねた……」
悔しげに言いながら掌で乱暴に涙を拭う香穂子に、加地は一瞬目を丸くし。
そして、ふわりと笑顔になる。
「満足してくれた?」
ジャケットのポケットからハンカチを取り出し、香穂子の前に身を屈めた加地が、そのハンカチでそっと香穂子の頬を拭う。
鼻声のまま、香穂子がこくんと頷いた。
「一緒に、カノン弾きたくなったよ」
「それならよかった。じゃあ、この後はデュエットしようか」
にっこりと笑う加地に、香穂子は小さく瞬いて。
それから、両腕を伸ばし、ぎゅっと加地に縋り付く。
「……ちゃんと、届いたからね」
いつも、どこまでが本気なのかを捉えかねていた加地の想いを。
溢れる音とともに、香穂子はちゃんと受け取った。だから。
「今度は、私が加地くんに返すからね」
君みたいに、弾きたいと願っていた。
優しく、清らかに。
寂しい誰かのその心に寄り添うように。
今日の演奏が君に近づけたなんて、そんなおこがましいことは考えないけれど。
それでも、いつも君がそうしているように。
受け取ってくれる誰かのために、自分の想いを歌わせたんだ。
「……ありがとう、香穂さん」
香穂子の華奢な背中を抱き締め返し、加地はそっと目を閉じる。
今まで、香穂子と一緒に奏でるその時だけ、加地は拙い自分の音を少しだけ許すことが出来た。
そうして、今日。
香穂子のために、香穂子への溢れる想いを素直にヴィオラを歌わせてみて、初めて。
加地はようやく、自分の音を少しだけ愛することが出来たのだ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:14.11.9 加筆修正:16.7.30】
加地の基本形だと思って書いてました。自分では納得いかなかろうが、楽器弾けるだけで充分だから!すごいから!……と楽器に縁がない私は思う(笑)
香穂子との出逢いで、加地の音楽に対する姿勢が少し楽なものになればいいなあといつも考えてます。


