その音色に惑わされて

金澤→日野

 からりと音を立てて窓を開けると、新鮮な空気と共に飛び込んでくる、色とりどりの『音楽』の欠片。「皆、練習熱心で感心感心」とのんびり呟く金澤の指先から、隙のない身のこなしで吉羅が火のついたばかりの煙草を奪い取った。
「……煙草は控えてくださいと何度もお願いしているはずですが? 金澤さん」
「一本ぐらい大目に見ろよ~。別に、控えろって言われただけであって、止めろって命令されたわけじゃないんだからさ」
「はっきり言えば聞く気があると仰るのであれば、そのように致します。……『煙草は止めてください』」
 冷たく言い放ちながら、吉羅はテーブルの上の灰皿に、まだ数ミリも減っていない煙草を容赦なく押し付けて消した。「あーあ、安くないのに。もったいねえなあ」と金澤が嘆いた。
「そう言えば給料日前にはよく、金がないと夕飯の無心にいらっしゃいますね。嗜好品への出費を抑えれば、そんな苦労もなくなるのではないですか?」
「……」
「そうだ、私の理事長就任の暁には、まず校内全域禁煙を掲げましょうか。前々から声楽を学ぶ学生もいる校内での喫煙については、教師内での反対意見も多かったことですし」
「……すまん、俺が悪かった。煙草は控える」
 ただでさえ昨今の愛煙家は肩身が狭いというのに、一日の大半を過ごす学内での禁煙を強行されると辛いものがある。両手を挙げて降参の意を示すと、吉羅は困ったような表情で小さな溜息を付いた。
「……別に好き好んで貴方を虐めているわけではないんですよ」
「……分かってるよ」
 苦笑して答える。
 良くも悪くもこの後輩の性格は、身を持って理解している。吉羅はただ、金澤の事を生真面目に案じているだけなのだ。

 振り返るのも億劫な過去、金澤の人生最大の地獄の中で、唯一救いの手を差し伸べたのはこの吉羅暁彦だった。誰もが見捨てた金澤のことを、吉羅だけが諦めなかった。
 夢と希望と職を失い、自暴自棄の金澤を現状まで引き上げた吉羅が、喉を傷めるだけの煙草を吸い続ける金澤を心配しているだけだということは、金澤にもちゃんと分かっていた。

「だがなあ吉羅。俺はもう二度と表舞台で歌うことはないだろうよ。煙草を覚えたのだって、それを覚悟の上でだしなぁ」
 世界で自分が一番輝いていたと自負できるあの頃に戻ることはない。戻りたくはないと思えたからこそ、金澤は自分で自分を虐め抜き、そして現在の金澤があるのだ。
「……そうですか?」
 思いもよらぬことを聞いたとばかりに、吉羅は真顔で尋ねる。
 念を押すように、一言一言をはっきりと発音し、もう一度繰り返した。
「本当に、そうですか?」
 数か月前ならば、吉羅は金澤のその答えに納得しただろう。
 吉羅が手を差し伸べたあの頃ほどには金澤はすべてを投げ出してはいない。それでも自分の将来に何ら希望を抱かず、どこかですべてを諦めている。それが、今までの金澤だった。
 だが、吉羅は金澤の小さな変化に気が付いていた。どんなに吉羅が諌めても、決して本数を減らすことのなかった煙草。それが今年の春先くらいから、金澤は吉羅の叱責に渋々ながら応じるようになっていたのだ。
「金澤さん。貴方ももう充分分かっているはずです。可能性というものは、この世の誰にでも……勿論貴方にも、必ず秘められているものだということを」
「何を言って……」
「事実、私達の目の前に体現されたものがあるでしょう」
 ……日野香穂子。
 吉羅の唇が、一人の生徒の名前を形作る。金澤の目が緩やかに見開かれた。
「つい先日までヴァイオリンに触れたこともなかった素人が、聴衆を虜にする音色を生み出す。……もちろん、アルジェントの余計な加護というものはありますが、それでもたかがファータの加護だけであれだけの成長が見込めるはずもない。あれはあの生徒の地道な努力と、無限の可能性が生み出した奇跡ですよ」
「それは、そうだが……」
「貴方も同じです、金澤さん。条件だけみれば、彼女よりも貴方の方が分がいいくらいだ。彼女と違って貴方は、これまでに蓄積してきた経験と、何よりも一度は最高の舞台に立ったという成功例をお持ちなのですからね」

 もう、自分自身を虐めるのは止めにしませんか。

 ひどく真摯に吉羅は言い置いて、そして、静かに音楽準備室を出て行った。


「……好き勝手言いやがる」
 一人ごちて金澤はパイプ椅子を引きずり、窓際へと移動する。無造作に置いたその椅子に腰かけ、外の様子を伺った。
 風に乗って微かに届いてくる、色とりどり、十人十色の音楽の欠片。
 ピアノ、トランペット、フルート、チェロ、コントラバス、ホルン、クラリネット……様々な楽器たちが歌うこの音色の海の中に、たった一つ拙いヴァイオリンの音色が混ざっているはずだ。
 そんな危なっかしいヴァイオリンの音色が、日を追うごとにその彩りを変えることを金澤は知っている。蛹が蝶になるように、蕾が花開くように、その音は日々輝きを増していく。
 そして、金澤はその音色に惑わされる。
 一度は断ち切られた表舞台への切符が、本当はまだ、自分が見ていないポケットのどこかに隠れているのではないかと期待させられる。

(そんなわけが、ないのにな)

 他の誰でもない、自分自身が壊してきた喉だ。かつて栄光の中にいた頃のように、歌えないことは知っている。
 それでも日々歩みを止めず、成長し続ける音色が、金澤の中に残されているかもしれない可能性の存在を示唆する。
 そして、もうとうに諦め切っていたはずの金澤の未来に、小さな小さな導きの光を灯すのだ。

(お前さんが、いつか俺の歌を聴きたいって笑うから)
 いつか、そのうちでいいから、先生の歌を聴かせてくださいね。
 彼女が一方的に押し付けた約束を。
 そのうちなんて、一生来ないぞと拒絶しながら。
 心のどこかで律儀に守ろうと決心して、煙草の本数を減らし始めた自分自身にも、気が付いてはいるけれど。


 無意識に白衣のポケットに手をやって。
 煙草を取り出そうと、しばし軽い箱を掌の中でもてあそんで、金澤はそれをもう一度ポケットの中に収める。
「……お前さんのヴァイオリンなんて、聴かなきゃよかったんだよなあ」
 苦笑交じりに一言、本心ではない言葉をぽつりと吐き出して、両目を閉じる。
 聴きたくはないはずなのに、耳に届くたくさんのノイズの中に、その音色を探してしまう。

 全てを諦めていた金澤の歌にも、もう一度輝ける可能性が残されている。
 そんな世迷言を目の前に提示し、金澤を惑わせる、未だ蕾の形をした拙い音色。
 でもその蕾が花開く瞬間を、自分自身がこれからの未来を生きていくために欲していることを。

 他の誰でもない金澤自身こそがよく分かっていた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:14.11.1 加筆修正:16.7.30】

企画掲載時には+吉羅とかしてたくらいに、香穂子率がなくて吉羅率の高いこの話(笑)
それでもあしらおうと頑張ってる金やんと、それを物ともしない吉羅のやりとりは書いてて楽しいです。
吉羅の方がはぐらかさずにきちんと大人な答えをしているはずなのに、金やんと話してるとやっぱり吉羅が後輩っぽくなるのが不思議です。生真面目だからこそか。

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