休み時間に猫好きの普通科生徒が来ることはよくあるが、逆に音楽科の生徒たちはあまり立ち寄らない。猫の爪による怪我を危惧してのことだ。
ここに集まる猫たちは基本野良育ちとは言え、金澤の餌付けによりほぼ飼い猫と変わらない穏やかな性質だが、集まる生徒の全てが猫の扱い方を心得ているわけではない。
音楽科の生徒たちは、それなりに上流の家柄に属している連中が多い。たとえどれだけ才能があっても、環境がある程度整っていなければ、音楽というものを続けていくことは困難だからだ。そして、そういう連中は野良猫というものにあまり馴染みがない。もし猫という動物を飼っていたにしても、おそらくは血統書付きの大事に大事に育てられた箱入りナントカであろう。
生きることに必死の野良連中が、どういう扱いを理不尽に感じるか知りようがないのだから、逆鱗に触れて報復を見舞われることだって当然あるだろう。
「あいつら、給料前の安月給の教師の苦労なんていざ知らず、親の金でいいもん食ってんだろうなー。その点、お前さんたちはホームセンターでセール中の三個98円の猫缶でも、こんなに美味そうに食ってくれるんだから、偉いよなー」
「……金澤先生、金欠なんですか?」
それと、音楽科の人たちと何かあったんですか?と、半ば呆れ気味に香穂子が尋ねる。
夢中で猫缶を貪る馴染みの猫の背中をゆっくり撫でながら、金澤は頷いた。
「聞いて驚け、給料日まであと三日もあるのに、俺の財布の中には英世先生が一枚しか入っていない」
「……」
「だから、吉羅のヤツに寿司を食わせろと電話をしたらだな、日ごろの金遣いをもっと計画的に行えって一時間ばかり説教されたから、面倒になって電話切っちまったんだよな。給料日前の安月給取りの苦労を知らないセレブな連中はこれだから……」
「………」
香穂子は鞄の中に収めていた食べかけのスナック菓子の袋を取り出し、そっと金澤に差し出した。「お、悪いな」と笑顔で金澤がそれを受け取る。香穂子は思わず、大きく溜息を付いた。
金やんっていい加減だよね。
周りの友人たちは、金澤のことを口をそろえてそう評価する。半ば呆れながら……それでも笑みを含んだ、親しげな口調で。
面倒くさがりな一面がどうしても第一に浮かんでしまうが、本当は生徒のことをよく見ている教師なのだということは、皆がよく分かっている。
そして、それは香穂子も例外ではない。
会話の内容にしょうがないオトナだなあと呆れながらも、香穂子はつい金澤の姿を求めて、この森の奥まった場所へ練習にやって来る。ここの猫は人懐っこくてとても可愛いし、香穂子のヴァイオリンを大人しく聴いてくれる……それも決して嘘ではない動機だけれど、一番の理由はここに来れば、間違いなく金澤に会えるからだ。
金澤が常駐している場は音楽準備室だが、あの場は訪れるにも長居をするにもそれなりの理由が必要になる。反面、香穂子が長居しても何の問題もないこの場は、必ず日に一度は金澤が猫に餌をやりに来るし、職務から逃れるためにそれなりに長い時間ここにいてくれる……金澤の傍に少しでも長くいたいという香穂子の不純な動機を満たすためには、格好の場所だった。
そしてこの場所で金澤に会う時には、とっておきの『ご褒美』がある。
何気ない軽口に付き合った後、練習の名目でここにやってきているのだからと、香穂子はヴァイオリンを構える。金澤はそんな香穂子の様子を気に留めることもなく、お腹がいっぱいになって芝生の上に横たわり、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた猫を愛おしげに眺め、その背を撫でてやっている。
ちょっと羨ましい……と心の中で呟きながら、香穂子はそんな金澤と猫に背を向けて、ゆっくり、一音一音を確かめるように弦に弓を滑らせた。
猫たちが音に慣れてくれるまで、優しい曲を奏でようと心がける。あまりに勢いがあり過ぎる曲を選んでは、驚いて逃げられてしまうからだ。猫たちがここで安穏としていてくれなければ、ご褒美は手に入らない。慎重に、香穂子はスローペースな曲を不協和音を混ぜないように気を付けながら紡いでいく。
やがて、香穂子の柔らかなヴァイオリンの音色が辺り一帯を満たす頃。
香穂子の背後から、合わせるように歌い出す微かな低い声。
おそらく、金澤は無意識だ。
彼がスポットライトの当たるステージ上にいたころの面影は見る影もないのであろう、他愛なく小さな鼻歌。
だが、香穂子はその気負いのない歌が好きだった。
ヴァイオリンの陰に隠れて、傍にいる香穂子がかろうじて聴き取れるかどうかの、小さな小さな、背中越しに聞く歌。
それはきっと、金澤が普段表に晒すことはない。
本当の彼が持つ、穏やかで優しい音。
(もう少し、気付かないで)
金澤本人が、自分自身が無意識に紡ぎ出す歌に、気付かないでいてくれればいい。
金澤を慕ってこの場に集まってくる猫たちと、そして香穂子だけが知っていればそれで充分の。
ひたすらに愛おしい。
背中だけで聴く音色。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:14.11.1 加筆修正:16.7.30】
本当は背中合わせで互いの音を聴いて欲しかったんだけど、ヴァイオリン弾いている時に背中合わせ無理だし(笑)ただ背中合わせなだけじゃ金やん歌わないだろうしなあ。
ということで、書き上がったのがこんな話。相変わらず金やんと理事のやりとりは書いていて楽しい。年齢が大人と呼べる域に達しても、大人になりきれない大人は、ほら、ここに!(←渡瀬自身)


