恋願うは君の音色

王崎→日野

「王崎先輩、まだ帰らないんですかあ?」

 校内ですれ違った馴染みのオーケストラ部員に声をかけられ、王崎は「うん、もう少しね」と曖昧な返答をする。不思議そうに首を傾げた部員は、それでもそれ以上を追及する気はなさそうで、「じゃあ、お先に失礼しまーす。お疲れ様でーす」と一礼して通り過ぎて行った。
 今日のオケ部の練習は、とても順調に進んだ。
 予定していた練習項目を問題なくこなし、全体的な仕上がりも上々だ。もちろん、皆が脳裏に描いている完成形に到るまで、まだ細かい注意点はあるものの、それは今後の個人練習の成果次第で充分に挽回できるものだし、むしろ無理に長引かせてせっかくの良い形を崩してしまうよりは、現在のイメージを持たせたまま次回の練習日に繋げた方がいいと考え、通常より早く王崎は練習を切り上げた。
 最終下校時間まで後数十分ほど。残りわずかな時間を無駄にしないように学内での自主練習に切り替えた者も数名いるが、ほとんどは家での練習環境が整っている生徒ばかりなので、降って湧いた貴重な空白の時間を満喫するために、早々に帰宅する部員ばかりだった。
 王崎ももちろん暇というわけではなく、大学の課題や自分の実技練習など、時間があるならば本来やらなければならない事項はこれでもかと目白押しだ。せっかくの貴重な時間を有効利用すべきなのは分かっているのに、どうしても学外へ足が向かない。週に3日しかない貴重な練習日なのだし、わずかでも自己練習をする部員がいて、自分が何かアドバイスの一つでも出来るのならば……そんなふうに自分がここに残りたがる理由を無理矢理に心の中に浮かべてはみたけれど、それが真実ではないことは王崎自身が一番よく分かっていた。

 しばらく校内を当て所なく彷徨い、人の減ってきた校内で、ふと王崎は立ち止まる。
 薄汚れた壁に背中を預け、目を閉じて、耳に届く沢山の音の中から、たった一つの音を探す。
 どうしても惹かれる。どうしても聴きたいと願う、心地よい音色。
 週3回のわずかな時間。例えここに来たとしたって、その音色に逢える保証はない。
 だから、もしその音を耳にするチャンスがあるのなら……その願望が、王崎をこの学院内に留まらせている。

 人の気配が、そしてそれらが織り成す雑音が減ってきた校内で、ようやく王崎の耳に、微かなヴァイオリンの音色が届く。日頃様々な音色に鍛えられている王崎の耳には、はっきりとそれが誰の持つ音なのかが分かった。
 身を起こし、その音に導かれるように、王崎は森の広場の方角へ歩き出した。


 森の広場の、少し奥まった木々の陰。
 遠目にもそれだと分かる背筋のきちんと伸びた後姿。
 それが視界に入った途端に、王崎は何ともいえないような、幸せな気持ちになる。
 彼女がヴァイオリンを弾く、意外に綺麗な姿勢が好ましいのはもちろん、何よりも表情が見えなくても彼女が楽しそうにヴァイオリンを弾いていることが伝わるからだ。
 ゆっくりと歩み寄っていくと、王崎が声をかけるより先に相手の方が人の気配に気づく。
 ヴァイオリンを弾く手を止めて、日野香穂子が王崎を振り返った。
「……王崎先輩! こんにちは」
 彼女の演奏を中断させてしまったことで生まれた王崎の中の罪悪感を払拭するように、香穂子は王崎の姿を認めると、晴れやかな満面の笑顔を見せてくれた。
「こんにちは、香穂ちゃん。……ごめんね、せっかくの演奏を中断させてしまって」
 王崎が詫びると、香穂子は笑顔のままふるふると首を横に振った。
「もう最終下校の時間だから、ちょうど練習終わるところだったんです。だから、気にしないで下さい」
 その言葉は王崎に気を使ったというわけではないようで、香穂子はすぐに愛器をケースの中に片付け始める。ふと腕時計の文字盤に目をやれば、確かに帰り支度を始めなければ締め出される時刻だった。
「……残念だな」
 ぽつりと王崎が苦笑交じりに呟くと、香穂子が片付ける手を止める。上目遣いに王崎を伺う香穂子の表情が、言葉はなくても「何が?」と問うていた。
「実は、きみのヴァイオリンが聴きたいと思って、ずっと校内を探していたんだけど、見つけるのがちょっと遅かったみたいだ」
「……それを言ったら、もちろん私も王崎先輩に、もうちょっとちゃんと聴いて欲しかったですけど。アドバイスもらいたいところもいくつかあったし」
 そうなんだ、と王崎は頷く。
 頷いた後……王崎は自分と彼女の過ごす時間が、もう少しだけ続く可能性に気が付く。
「香穂ちゃん。……もしこの後、もう少しきみに時間があるのなら、よかったら、どこか別の場所で君のヴァイオリンを聴かせてくれないかな」
「え、ホントに!? いいんですか? 王崎先輩の迷惑になりませんか?」
 ぱたんと愛器を収めたヴァイオリンケースを閉じて、きらきらと輝く表情で香穂子が王崎を見つめる。王崎も笑顔で再度頷いた。
「もちろん、おれから言い出したことだし大丈夫だよ。……じゃあ、正門も閉まることだし、とりあえず学院を出ようか」
「はい!」
 大きく返事をした香穂子がヴァイオリンケースと鞄を手に、王崎の傍らに立つ。夕焼け色に染まる森の広場を背に、二人は肩を並べてゆっくりと歩き出した。


 後ろ髪引かれてしまうほどに、乞い願うは君の音色。
 ……そう、求めていたのは彼女のヴァイオリンの音色のはずだったのに、音がなくともただ香穂子の存在が隣にいるだけで、あれほど王崎の心に巣食っていた飢餓感にも似た思いは鳴りを潜める。


 王崎が本当に乞うていたのは。
 その存在を、願っていたのは。

 甘い恋心を教えてくれる、君そのものだったのかもしれない。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:14.11.2 加筆修正:16.7.30】

王崎らしい片恋話を書いた気がする(笑)コルダにおいてはどのキャラもそうですけど、まず香穂子の音から好きになるんですよね(笑)
で、香穂子がヴァイオリン弾いてなくても、一緒にいると「あ、何か幸せ」ってなるんですよね。幸せそうでいいなあ!(どうした)
しっかし、遠くの香穂子の音を聴き分ける王崎先輩、耳いいなあ(笑)

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