それは、吉羅にとっては良くも悪くも、ひどく馴染んだ場所だ。
仕事の上での付き合いは否が応にも発生するもので、こういう場への招待を受けるのも珍しいことではない。音楽に力を入れている学校の関係者……実際のところ、関係者という一言には収まらない、むしろ運営者の立場だが……ともなれば、この手の演奏会を兼ねたパーティというものは嫌というほど経験している。
だが、その日は妙な違和感を感じた。テーブルの上には豪勢な料理の数々、ウェイター、ウェイトレスが掲げる磨き込んだ銀トレイの上には様々な種類のアルコール。広い会場には所狭しと招待客が溢れ、各々に談笑しているから、背後に流れている静かなクラッシックのBGMは、その喧騒に紛れて途切れ途切れにしか吉羅の耳に届かない。
パーティの中盤には、主催者が趣味で編成しているというアンサンブルの生演奏が行われる予定だったが、果たしてほどよくアルコールが入ったその時分に、どれほどの招待客が演奏を真剣に聴くのやら……。まあ、演奏者の方もそれなりの観客がいる場で、思う存分演奏ができればそれで満足なのだろうから、と吉羅は心の中で皮肉を述べた。
今吉羅の目に映る空間は、隙間というものが見当たらないくらい様々なものに満ちているはずだった。それなのに、何かが足りないと吉羅は感じる。
その空虚感の正体には、最初から気が付いていた。
自分の右隣……車を運転する時にでも、そして道を歩く時にでも、いつも吉羅の日常の中で当たり前のようにそこにある存在を無意識に探しているのを自覚し、吉羅は苦笑する。
(やれやれ、私も随分と女々しくなったものだな)
ここにないたった一つの幻を空想し、渇望する。
少し前の吉羅ならば、考えられないほどの執着だ。
(さて、どうやってここを抜け出そうか……)
演奏会と名のつくものだから、学院の運営に……そうではなくても彼女のこれからにとって何かプラスになるものになればと、気が乗らない個人的なパーティに参加してみたが、列席者の顔ぶれを見る限り、おそらくこれ以上この場にいても得られるものは何もないだろう。
開始十分も経たないうちに早々に見切りをつけ、吉羅はこの不快な喧騒の中から脱出する方法を、早速模索し始めた。
「暁彦さん!」
待ち合わせた星奏学院の職員用駐車場。いつも吉羅が車を停める場所の街灯の下で、香穂子が嬉しそうに笑って手を振った。
「急に呼び出して悪かったね」
「いいえ。ちょうど提出しなきゃいけないレポート書いていたので、閉館ぎりぎりまで大学の図書館にいたんです。暁彦さんは……もしかしてパーティか何かの帰りですか?」
街灯の明かりの中で、普段とは違う明らかなフォーマルスーツ姿の吉羅を確認し、香穂子は首を傾げる。そして、はたと顔を上げた。
「って、そんなわけないか。むしろ今からがパーティ本番って時間ですよね。私と逢ってて、ちゃんと間に合うんですか?」
辺りは暗いが、時間としてはまだ20時を過ぎた頃だ。確かにパーティに出席するのであればむしろこれからという頃合いだろう。
「心配はいらない。そのパーティをもう抜けてきたところだからね」
最初の乾杯の後、少し料理をつまんだくらいのタイミングで吉羅はさっさと会場を後にしてきた。会場の規模に対していささかキャパオーバーではないかと思えるくらいに無駄に招待客が多かったおかげで、吉羅一人が抜け出ても、誰も咎める者がいなかったのは幸いだった。
「え、それって大丈夫なんですか?」
「大丈夫も何も。パーティとは言っても所詮金持ちの道楽のようなものだからね。コンサートでもないのに人を大勢集めて、趣味の稚拙な演奏を披露するだけだ。受付はしているから私が参加した痕跡は残るわけだし、これ以上貴重な時間を無駄に使いたくはない」
「ははは……」
容赦のない吉羅の説明に、香穂子が乾いた笑いを浮かべる。
吉羅は構わずにそこに停めていた自分の車のドアに手を掛けた。
「招待された時からレベルの低いパーティなのだろうと嫌な予感はしていたが、その予感が的中してしまったのでね。念のために乾杯もノンアルコールを選んでおいてよかった。……乗りたまえ、口直しに食事にでも行こう」
本当に大丈夫なのかと不安には思ったものの、吉羅と一緒に食事に行けるという事実そのものは嬉しかったので、香穂子は素直に頷いて、助手席に乗り込んだ。
音もなく、地面を滑るように走る高級車の静かな車内。
進行方向を見据えながら、赤信号などで停車をするたびに視線を向けると、その視線の先にいつも香穂子がいる。吉羅と同じように前を見据え、時折吉羅の視線に気が付くと、ふわりと花が綻ぶように笑う。
先ほどの喧騒の中にいる時よりも、音も人も、明かりすらも乏しいはずなのに、何故か吉羅の心は満ち足りていた。
頻繁に会えるわけではないのに。
吉羅も香穂子も、それぞれに違う日常を生きているのに。
それでも吉羅にとって香穂子という存在は、いつしかそこになくてはならない日常の一部になっている。
……隣にその姿がないと、いっそ心細さすら覚えるくらいに。
「……君にとっての私の存在も、そうであるならば言うことはないんだがね」
ぽつりと呟いた吉羅の一言に、香穂子が驚いたように振り返った。
「え……何がですか?」
「いや? 何でもないよ」
軽くはぐらかす吉羅が、前方車のブレーキランプが点灯するのを見て、ゆっくりとブレーキを踏み込んだ。夜の渋滞の流れの中、車が緩やかに停車する。不満げに頬を膨らませた香穂子に、思わず吉羅は笑う。
そうだね、確かにそれは紛れもない本心なのだから。
たまには素直に、君に打ち明けてみてもいい。
「私の隣には、君がいなければ落ち着かない。……そう思っただけだよ」
思いがけない一言に、驚いたように目を丸くした香穂子が。
吉羅の一言を受け止めて、自分の中に咀嚼して呑み込んで。
そして、桜色に頬を染めて。何だか幸せそうに微笑むから。
その笑顔が愛おしくて。
つい、片手でその体を引き寄せて。
軽く啄むように口づけてみる。
そんな何気ない日常の、幸福なワンシーン。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:14.10.14 加筆修正:16.7.30】
火原と同じように、吉羅の一人称に合わせて「私の日常、隣には君」としてもよかったんですけど、何かドヤ顔でこのタイトルを読み上げる吉羅を想像してしまって、タイトルを見るたびにじわりそうな気がしてそのままにしてあります。ヒドイ理由だ(笑)
隣に香穂子がいないと落ち着かない理事が書けて満足です♪
一線越えると手が早い理事長もうちではもはや標準装備!(笑)


