その視線の延長線上で、吉羅は唇の端に徐に小さな笑みを浮かべた。
「最初の印象と言えば、……そうだね、はっきり言ってしまえば、お世辞にも好印象とは言えないものだったよ」
がっくりと肩を落とし、明らかにその目に落胆の色を浮かべる香穂子の様子を眺め、吉羅はどこか楽しそうな表情で頬杖をついた。
そもそも、ファータが見初めた人物だという、その最初の印象が最悪だ。
吉羅の記憶にある限り、音楽の祝福をもたらすというファータという存在が、吉羅に対して何か幸福をもたらしたという事実が全くない。
高校に進学後、まだ彼奴らの対応に慣れていなかった頃は、他人の目に映らないファータが目視できることで何もない空間に話しかけて変人扱いされたこともあったし、学内音楽コンクールに臨めば、ファータ印の商品のアレコレの実験台にされもした。
……そして、それだけの迷惑を被りながら、大切だったものを奪われた。
ファータの責ではないと頭では分かっていても、どうして姉を愛していてくれたのなら姉にきちんとした祝福を与えてくれなかったのか……姉の不調に気付いてくれなかったのかと、憎しみを抱いていた時期すらある。
そして紆余曲折の末、もう一度星奏学院に足を踏み入れることになり、出逢ってしまった日野香穂子という少女。
かつての姉のように、ファータに愛され、音楽を愛する、素直で真っ直ぐな存在。
……姉に外見で似ているところは欠片ほどもない。そして奏でるその音も、姉の洗練された音色を思い返せば、比べうるものではない。
それでも、日野香穂子という存在は吉羅に姉の面影を彷彿とさせた。
真摯に音楽に取り組む姿勢。時折、我が身を省みることさえ忘れるほど。
……日野香穂子は音楽に対するその一途な情熱こそが、何よりも姉によく似ていた。
姉とは違うと自分に言い聞かせながらも、香穂子は吉羅にとって見過ごせない存在となった。そして、だからこそ深く関わりたくはないと思っていた存在でもある。
彼女を知れば知るほど、そしてそこに姉と同じものを見つければ見つけるほど、吉羅はようやく心の奥底に片付けることができた喪失の痛みを、もう一度掘り返すことになる。
……そう思っていたのに、気付けばいつしか惹かれていた。
姉とよく似た、それでいて姉とは違う存在に。
きっかけはよく分からない。
姉という存在に酷似していたからこそ、余計に執着が湧いたのかもしれないとは思う。音楽を愛し、優しいヴァイオリンを奏でる存在は、吉羅がもう二度と失いたくないと願うものだった。
だが、香穂子を気に掛けた理由がそれだけなら、きっと吉羅が香穂子に抱く想いは家族愛に似たものに育ったのではないかと考える。その成長を見守り、巣立ちを祈り、ずっと支え続けたいという想いに。
それがどうして、誰にも渡したくないという歪んだ想いに育ってしまったのだろう。
「……まあ、そうですよね。暁彦さん、出逢った頃はあからさまに私の事嫌がってましたもんね……」
吉羅と学内でばったり出会うたび、いいようにあしらわれていた過去を思い返し、へこんだ様子で呟いた香穂子の声に、ふと吉羅が我に返った。
この思考に沈む発端は何だったのか……そう、香穂子が尋ねたのだ。
『初めて出逢った頃、私の事どんなふうに思っていましたか?』と。
そして、吉羅は正直に告白した。
……初対面での印象は、決して好印象とは言えなかったと。
「嫌がっていた、という表現は少し違うようにも思うがね。私は元々人と深く関わるのが好きではない。友人と呼べる間柄の人間はいるにはいるが、そう数多いものではないし。……親族以外でそれなりに深い付き合いだと言えるのは、それこそ金澤さんくらいだろう」
「そういえば、暁彦さんって結構ビジネスライクな、割り切ったお付き合いの仕方してますよね」
吉羅と付き合うようになって、間近で彼の仕事ぶりを見てきた香穂子は納得する。
香穂子たちと対応する時の高圧的な態度とは違い、仕事上の吉羅は実は驚くほど人当たりがいいのだが、その反面、内側に入るためのボーダーはきっちりと引いていて、決してそこを超えさせない。
「人の深淵を知るのは、煩わしくてね」
苦笑交じりに深い溜息を付くのは、それが確かな本心だからなのだろう。
香穂子は不安そうに眉間に皺を寄せる。
気遣わしげな視線に気が付き、吉羅は小さく笑う。片手を伸ばして、香穂子の頬にそっと触れた。
「だからこそ、私にとって君という存在は貴重だということだよ」
初めは、通りすがりの邂逅。
その後ファータを通じて、彼女という存在を知った。
敵対したこともあった。無理難題を要求したことも。
本来なら香穂子の方が吉羅という存在を遠ざけてもおかしくなかったはずなのに、彼女は今も変わらず、吉羅の傍にいる。
これまで出逢ってきた存在と、何が違ったのだろう。
音楽に情熱を注ぐ存在も、素直に吉羅の指示を聞き入れる存在も、香穂子に出逢うまでに皆無だったわけではないのに。
どうして、彼女だけは違っていたのだろう。
どうして彼女だけが。
吉羅にとって、なくてはならない存在となってしまったのだろう。
「……そうだな。改めて考えてみると、君の質問への明確な回答はない」
元を辿れば、香穂子の何気ない質問から始まったのだ。そして、その問いに対して様々に思いを巡らせてみても、答えは出てこない。
香穂子のことを好きになった理由は分からない。
だが、吉羅が幾ら拒もうとしても、無意識のうちに吉羅の心の奥底に触れてくる香穂子という存在を、吉羅はどうしても振り切ることが出来なかった。
……吉羅の深淵を無遠慮に覗こうとする香穂子を、吉羅は不快なものとは認識できなかった。
(……本当は誰かに触れて欲しかったのかもしれない)
誰の目にも触れぬように隠し続けてきた、癒しきれない深い傷を。
本当は、誰かに見つけてもらって、触れて、癒して欲しかったのかもしれない。
だからこそ、そこに躊躇わず触れようとする香穂子という存在は、吉羅にとって思いがけず心地のいいものとなったのだろう。
「……私は君が思うよりもずっと、幼く、独占欲の強い男なんだよ」
「……はい」
いつか、彼女に告げたことのある言葉を、もう一度繰り返してみる。
不思議そうに首を傾げた香穂子が、それでも小さく頷いた。
本当の吉羅を見せたことがある人間は限られているから、おそらく吉羅の奥底に残る幼さを知っている人間も、数えるほどしかいないだろう。
そしてあの時は理解していなかったはずの吉羅の告白を、今では正しく理解しているであろう香穂子は、誰よりも吉羅に近い場所にいる。
吉羅の弱さを告げても、変わらずに傍にいて、慈しんでくれる存在を。
愛おしく思うのは道理だと吉羅は考える。
「だが、それでは君は納得しないだろうしね」
吉羅の独白に、増々香穂子が不思議そうな顔をする。
何でもない、と吉羅は肩をすくめた。
いつか、君が望むとおりに。
君がただ、君という存在だったから愛しただけなのだと。
そんな真実を告げる日が来るのかもしれない。
だが、いまだ明確な理由を欲しがる幼い君に。
私が君に抱く、どこまでも醜く、そして真摯な想いを。
本当の意味で理解できる、その日は遠い。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:14.10.19 加筆修正:16.7.30】
吉羅の愛の告白(笑)は書いたことがあるので、ちょっと変化球の告白を書いてみました。でも一応これも愛の告白ではありますよね。
吉羅が香穂子を好きな理由を結構悶々と考えてみました。どうしてもお姉さんの存在は切り離せないと思うのですが……シスコ(強制終了)。


