空に響く音

衛藤→←日野

 予想はしていたものの、待ち合わせ場所に現れた香穂子が当たり前のようにヴァイオリンケースを持っていたので、衛藤の表情は見るからに不満げなものになった。
 香穂子も別にそういう空気が読めないというわけではないので、結果として落ち合った途端に衛藤に向かって開口一番「ごめんなさい」と、深々と頭を下げる羽目になった。
「……俺、今日は買い物したいって言ったはずなんだけど」
 別にそこまで怒っているわけではない。
 衛藤が予想していた通り、予定していなかったヴァイオリンの練習を想定している香穂子がヴァイオリン持参でやって来たというだけで。
 だが、いつもヴァイオリンの練習という形でしか、香穂子と一緒に過ごすことが出来ないという現実には、多少の不満が生まれる。
 衛藤はそれ以外の予定のつもりでも、衛藤のアドバイスが欲しい香穂子の方は、必ずヴァイオリンを持ってくるからだ。
「うん……ちゃんと分かってたんだけど。お天気もいいし、買い物が終わった後に、少しくらい練習ができるかなって……つい。ごめんね」
 両手で持ち上げたヴァイオリンケースに隠れるように身を縮め、恐縮しきりの香穂子が詫びる。衛藤は小さく溜息を付いて、苦笑する。拗ねた振りはそのままで、踵を返した。
「……あくまでショッピングが優先。練習は時間が余ったらね。……それでいい?」
「……うん!」
 背後の香穂子が弾むような明るい声で答えた。わざわざ振り返らなくても、満面の笑みでいるであろうことが伺える。

 結局俺、アンタには弱いんだよな。
 それはある意味、惚れた弱みというモノなのだろう。


「ヴィブラート、濁ってない? 腕に力入り過ぎだよ。少し力抜いて」
「うん……」
 結局、小一時間のショッピングを済ませた後で、いつものようにヴァイオリンの練習に突入する羽目になる。
 他のことをしていても、一つ演奏で気にかかることがあれば、香穂子の意識は常にそっちに向けられるので、彼女は店を覗きながらもずっと、どこか上の空だったからだ。
(で、結局付き合ってるっていうね……)
 ベンチに前のめりに腰かけ、頬杖をついて衛藤は目の前で一心にヴァイオリンを弾く香穂子の背中を見つめている。
 相変わらずの拙い音。
 ヴァイオリンを始めて間もないというのを聞き、妙に納得したことを思い出す。
 才能の有無の話ではなく、単純に日野香穂子というヴァイオリニストは衛藤と比べてヴァイオリンを弾いた実績が少なすぎる。
 そして香穂子は、まるでその不足分を埋めるかのように、暇さえあればヴァイオリンを弾く。しかも、それが苦痛ではなく、とても楽しそうに。
 衛藤の勝手な持論だが、いい演奏をするためには生活にメリハリをつけた方がいい。ヴァイオリンを弾く時には弾いて、それ以外の時には別のことに没頭して。
 ヴァイオリンから離れた時間を持つことは、表現力を付けるために必要な、己の内面世界を広げるための糧になると思っているし、ヴァイオリンを弾く時の集中力も養える。
 だが、香穂子はそんな衛藤の持つ常識を凌駕する。
 飽きずにヴァイオリンばかり弾いているが、決して集中力も切らさない。
 それでいて衛藤が受け止める世界よりも、おそらく彼女の見ている世界の方が広いのだ。
 それは、彼女の視野の広さでもあり、受け止める度量の深さでもある。
「……この間注意したとこ、綺麗に弾けてたじゃん」
 ふと気が付いてそう指摘すると、香穂子は嬉しそうに顔を輝かせて衛藤を振り返った。
「ホント? あのね、月森くんがコツを教えてくれたんだ。ポジショニングとか、運指のタイミングとか。そしたらちゃんと弾けるようになったんだよ」
 ……そう、衛藤の助言だけではなく、香穂子は周りのありとあらゆるヴァイオリニストのアドバイスを吸収していく。
 香穂子と同じことは、衛藤にはできない。衛藤にはヴァイオリニストとしてのプライドと信念があって、そこを他人に脅かされることを許さないから。
 だが、香穂子は違う。
 乾いた砂が水を吸収するように、香穂子は片っ端から自分のヴァイオリンに必要な要素を掴んで呑み込んでいく。尋常ではない集中力を発揮し、素直に全てのことを受け止め……その結果。
 驚くほどの短期間で、香穂子のヴァイオリンは飛躍的に伸びた。

「……アンタって、ホントにヴァイオリン馬鹿だよね」
 ぽつりと衛藤が呟く。
 素早くその声を拾い、不満げに頬を膨らます香穂子が衛藤を振り返った。
「何かそれ、衛藤くんには言われたくないんだけど」
「いやいや、アンタには負ける。俺は香穂子ほどヴァイオリン肌身離さずって感じにはならないし」
 衛藤にとって、確かにヴァイオリンは生きる手段だ。
 夢でも絵空事でもなく、ヴァイオリンを弾いて生きていくことが、衛藤の現実で人生だ。だからこそ、衛藤は生活の余暇の部分に、ヴァイオリンを持ち込まない。
 その余白の部分にすらヴァイオリンを侵入させてしまえば、おそらく衛藤はヴァイオリンに嫌気がさす。
「だって、今はヴァイオリンを弾くことが一番楽しいから。衛藤くんたちは私がヴァイオリンを知らない間、ずっとヴァイオリンを弾いてたんだもん。追いつくためには、私は何倍もヴァイオリンを弾かなきゃね」
 ……これまで、自分の生活には何もなかったのだと、いつか香穂子は言った。
 ヴァイオリンに出逢うまで、香穂子の日常には没頭できることがなかった。それは無気力で怠惰で……そして優しい時間だった。
 苦しみも葛藤もなく、ただ過ぎていく穏やかな日々。
 その時間が無駄だったのだとは香穂子は思わない。香穂子はそんな安穏とした日々の中でも、確かに不幸ではなかったのだから。
 ……だが、ひどく空虚であったことには違いない。
 だからこそ、今、心の底から夢中になれるヴァイオリンとの出逢いが幸運だったと、香穂子は自分の身に降った奇跡に感謝をする。
「せっかくヴァイオリンに出逢えたんだもん。今はただ、たくさんたくさん、ヴァイオリン弾いていたいんだよ」
 下手だ、未熟だと衛藤に貶されても、香穂子はめげずにヴァイオリンを弾き続ける。
 地に足をつけて、空に向かって。
 とても自由に。
 ただ、楽しいという気持ちだけを抱いて。
 音楽が好きだという想いひとつで、純粋にヴァイオリンを奏でられる香穂子のことを。
 いつしか衛藤は、心のどこか片隅で羨ましいと思うようになった。

 楽しいと。
 幸せだと想う気持ちを。
 音に乗せて、大気を震わせて。
 自分のヴァイオリンを聴いてくれる人に届けたいのだと香穂子は言う。
 だからこそ、香穂子と外界を何も隔てるものがない空の下で。
 香穂子はいつも、彼女らしい未熟で、危なっかしい……柔らかで素直な音色を紡ぎ続ける。

(……ねえ。アンタ誰に『その』音を届けたいの?)
 香穂子は、いつも空を見る。
 空を伝い、遠くまで響いていく、音色のその先を見ている。
 その視線の、心の先は、いったいどこへ辿り着くのだろう。
 あの優しくて、心を揺さぶる音色を受け取るのは誰なのだろう。

 想像もつかないその人物のことを考えて、衛藤はいつも不快な気分になる。
 香穂子のヴァイオリンの音色がこれほどまでに好きなのに。
 ……この音を奏でられる存在をとても好ましく想うのに。
 繰り返し彼女の音を聴いているうちに、練習なんかに付き合わなきゃよかったと後悔するのは、毎度のことだ。
(誰のために弾いてるの)
 素直な性質だから、全てが透けて見える香穂子の音色。
(誰のための『愛情』なの)
 誰かのことを愛おしんで。
 空に向けて、大気に融かし、その想いが届くようにと願い、紡がれる音色。
 ……きっと、受け取るのはこの場にはいない、遠い場所にいる誰か。



 少しは上手くなったんじゃないの?
 気が付く限りの批判と注意を浴びせた後、おまけのように本心を伝えてみても、上手く香穂子には伝わらない。
 まだまだだよ。
 衛藤の本音を受け取らず、香穂子はまた空を見る。
 数分前にそこに響いた、自分が作り上げた音色という想いの欠片を。

「一番近くにいてくれる人に届いてほしいと思っても、何か上手く伝わらないんだよね……」

 苦笑交じりに小さく呟いた香穂子の言葉は、葉擦れの音にまぎれて衛藤の耳には届かない。
「何?……もっかい言って」
 夕焼けを背に、尋ねた衛藤を振り返り。
 何故かとても綺麗に微笑んだ香穂子は、そっと立てた人差し指を唇に当ててみる。
「……内緒」


 澄んだ空に向けて、伝えたい想いを乗せたヴァイオリンの音色を響かせる。
 悪態をつきながらも、いつも傍で見守ってくれている大好きな貴方へ届くまで。

 繰り返し繰り返し。
 いつの日か、正しく伝えたい人に想いが届くまで……何度でも。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:14.10.23 加筆修正:16.7.30】

お互いに分かってない感じの衛日創作。あまり本数書いてないけど、この二人でこういう話は珍しいかな……。
公式がそうだからかもしれないけど、何となく衛藤くんとは練習するという口実がないと一緒に過ごさなそうな感じですよね(笑)そこまで衛藤くんは練習練習!って感じじゃないし、逆に「ええ~また練習~?」みたいな感じでもないはずなんだけど。

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