窓硝子の表面を、河のように流れていく雨の痕を視線で辿り、柚木は窓越しに重い色をした騒々しい空を見上げた。
「……雷、か」
ぽつりと呟き、心持ち足早に廊下を歩く。すれ違いざまに、頬を染めて黄色い歓声を上げて会釈する女生徒達に、過不足のない柔らかな微笑を返しながらも、内心舌打ちをしたいような苛立った気分になる。
(……早く行ってやらないと)
図書室で待ち合わせている彼女は雷が大の苦手だ。おそらくどこかの陰にでも身をひそめて、不安に息を殺して泣いているのだろう。
早く辿り着いてやらないと、と思う時に限って、ささやかな足留めが柚木の歩みを鈍らせる。それに不快感を抱いてみたとしても、思い返せば、そもそも優等生面を維持しなければならないのは柚木の勝手な都合であるし、16歳の女の子が雷を怖がっていると想像するだけで、早く会いに行かなければと焦るのは普段の自分を顧みれば随分と柄じゃない。どちらの事項も、柚木がこれまで積み上げてきたものと最近の心の変化に伴う『必然』で、それに振り回されるのは柚木の自業自得だ。
(……何だかんだと、振り回されているね。お前には)
既にそれが心地よくなってしまっている辺りで、もうどうしようもないのだと柚木は苦笑した。
雷雨の気配は授業時間の最後付近から忍び寄っていたから、聡い者はあらかた校舎を後にしてしまったようだ。
辿り着いた図書室にいたのはカウンター業務の当番の生徒だけだった。幸運なことに、生徒会の手伝いをする際に委員会等で見知った生徒だ。柚木はゆっくりとカウンターに歩み寄ると、「こんにちは」と彼に話しかけた。
「開店休業といったところのようだね」
苦笑混じりにがらんとした図書室内を見渡すと、手持ち無沙汰にカウンタに頬杖をついていた生徒が勢い良く身を起こして柚木に向き直る。どうやら愚痴を言える相手を探していたようだ。
「そうなんスよ。この雨でしょ? 電車が止まるんじゃないかって話もあったから、電車通学のヤツは特にさっさと帰っちまって。……俺も電車なんで、出来れば急いで帰りたいんですけど、まだ一人普通科の女子が奥の書庫に入ったきりなんスよね……」
聞きもしないのに、柚木が知りたい情報をあらかた暴露したその生徒は、大きな溜息をついて天を仰ぐ。
おそらく、彼の言う「普通科の女子」というのはここで柚木と落ち合う約束をしていた香穂子の事だろう。「好都合だ」と内心思いながら、柚木は柔らかな微笑を浮かべ、ふと思い付いたように言った。
「ああ、それなら僕がここの戸締まりを引き受けようか? 今日はもうこれ以上の利用者はいないだろうけど、僕は少し調べものをしたいから」
「いいんスか?」
かたんと椅子を鳴らして、顔を輝かせた生徒が立ち上がる。そして、あー、でも……と困ったように柚木を見た。
「だったら、奥にいる子に声かけて、あの子も帰しちゃった方がよくないスかね? 雨がこれ以上ひどくなるなら、あの子も帰れなくなるし、貸し出しの本とかあるなら、俺いないとまずいし」
「……余計なことを」
「え?」
顔には笑顔を貼り付けたまま、思わず呟いた柚木の低い声は、外で響く雷鳴が上手にかき消した。言葉を聞き取れず柚木を見上げた男子生徒に、柚木はにっこりと笑ってみせる。
「一人分の貸し出し手続きぐらいなら、僕が引き受けて構わないよ。その子もじっくり本を選びたいのかもしれないしね。どうにも雨がひどいようなら僕が車で送っていくから心配しないで。それより君の方こそ早くしないと、それこそ電車が止まってしまうんじゃないかな?」
「そうか……そうっスよね!」
柚木の言葉に納得したように頷いて、男子生徒はいそいそと帰り支度を始める。
じゃ、後はよろしくお願いします!と図書室の鍵を柚木の手の中に押し付け、ぺこんと頭を下げた男子生徒の背中を見送り、扉が閉まった途端に、柚木の上質な笑顔が表面から剥がれ落ちた。溜息を一つ。
「……手間かけさせやがって」
その優雅な雰囲気にそぐわない言葉を低く呟き、受け取った鍵を掌の上で弾ませながら、男子生徒の消えていった図書室のドアに歩み寄り、外側の廊下にもう誰もいなくなってしまったことを確認する。ドアの外側に「本日閉館」の札をぶら下げ、内側から鍵を閉めた。しんと静まった室内に、ただ激しい雨音と、時折閃光に遅れて地を這うように響く雷鳴の音だけが満ちた。
「……さて」
ひとりごちて、柚木は靴音を響かせながら図書室を横切り、奥の書庫へと歩を進める。そこには禁持出の音楽関連の専門書が数多く並べられていて、まだ全体的な音楽の知識に乏しい香穂子が、重宝している場所だ。柚木は何だかんだと校内で片付けなければならない雑事が多いから、それを待つ間の長い空白の時間を埋めるのにも役立っている。
「……香穂子」
書庫の扉を開けて、声をかける。中は電気も付いていなくて、薄暗いままだった。
入口のすぐ側の棚の間で、がたっと物音がした。
人一人が入れるくらいの隙間を柚木が覗く。
「……おやおや」
予想通りの惨状に、柚木が苦笑する。床や棚の上に散乱している分厚い本の数々。それらの更に奥、通路の隅で、香穂子が青ざめてうずくまっていた。
「予想通りと言うか何と言うか……散々たるものだね」
「……せんぱ……」
涙目で香穂子が顔を上げる。その瞬間にまた薄暗い室内を閃光が照らす。香穂子が悲鳴を上げてその場で身を縮めた。
「……馬鹿なヤツ」
うずくまる香穂子にゆっくりと歩み寄り、柚木は腕組みをしてそんな彼女を見下ろす。こわごわと視線だけを上げた香穂子に、小さく笑ってみせた。
「俺がここにいて、お前がそこにいて。……それなのに俺に頼ってこない理由って何? こういう時くらい、可愛らしく甘えるって芸当が出来ないわけ?」
「……でも、……だ、誰かに見られたら……」
自分の足元を見つめ、香穂子が震える声で呟く。
柚木は溜息を付く。
……二人の関係は、別に隠さなければならないものではない。むしろ、大っぴらに公表してやった方が、柚木には煩わしい女生徒は近付かなくなるし、コンクール以降香穂子の周りに増えた害虫達にもいい牽制になるだろう。
だが言葉で確かめるまでもなく、香穂子も柚木も不特定多数の人間に今の二人の関係を知られるような真似をしない。……万が一、柚木の家にこの関係が知られた場合、厄介なことになるのは分かり切っているからだ。
(準備が必要だろう?)
もう柚木には香穂子を手放す気がないのだとしても。
それを誰の目にも納得させるために、外堀を埋めていく必要がある。まだ何の手も打てないうちから、引き離されるわけにはいかないのだ。
「……誰もいないよ」
柚木がぽつりと呟くと、涙目の香穂子が顔を上げる。そんな彼女に微笑みながら、柚木はその場に片膝をつき、両手を香穂子に向かって伸ばす。
「おいで。……甘えさせてやるから」
呆然と柚木を見上げた香穂子が、くしゃりと顔を歪めて、そろそろと両腕を柚木に伸ばす。ぎゅうっと柚木に縋り付いて、香穂子が柚木の腕の中で小さな身体を震わせる。
「柚木先輩……」
柚木が抱き締める腕の中で、香穂子が小さく柚木の名を呼んだ。安堵したような香穂子の声に、柚木が苦笑する。
「たかが雷を、本気でそこまで怖がるんだ? 本当に、お前って子供だね」
「何と言われても、怖いものは怖いんです!」
強がる香穂子の言葉にもいつもの覇気がない。雷が怖いのは、幼い頃のトラウマだといつか言っていた。
はいはい、と呆れたように笑って呟きながら、柚木はゆっくりと、香穂子の背中を撫でてやる。
外の喧噪は、変わらなくて。
差し込む閃光も、落ち着く気配はなくて。
それでも、今この空間には、柚木と香穂子の二人だけしかいない。
自分たちを煩わすものは何一つなくて、ただお互いの存在だけが腕の中にある。……だから。
怯え切っている香穂子には申し訳ないけれど、柚木は切に願う。
(……このまま、時間が止まってしまえばいいのに……)
困難は、この先の未来に幾らでも待ち受ける。
そして、それに立ち向かう覚悟も出来ている。この腕の中の存在を、永久に自分のものにするために。
諦める気はない。
投げ出す気もない。
だけど、それが容易く歩いていけるものではない茨道だと、柚木にはそんな現実が見えているから。
……自分らしくない、柄じゃない。
それが分かっていても、どうしても。 柚木はこんな些細な平穏を願う。
「……あの、柚木先輩?」
腕の中の香穂子が、柚木を上目遣いに見上げる。少し落ち着いたら自分の醜態が恥ずかしくなったのか、頬を染めた香穂子は、柚木の胸に手を付いて、身を起こそうとする。
「ごめんなさい。……あの。もう……落ち着いたから大丈夫です……」
(俺の辿る人生なんて、初めから決められていたようなものだよ)
(別の誰かが丁寧に綴った、お決まりの物語だったんだ)
逸脱するなんて、夢にも思わなかった。
祖母の期待通りに綴られた、形にはまった物語。少しだけ寄り道をしてみても、結局は巡り巡って戻ってきて、その物語をなぞるだけだと思っていたのに。
(俺が生きる物語の中で、お前の登場だけが異質だったんだ)
まさかその出逢いが、絶対に揺らぐことがないと思っていた柚木の物語の地の部分を。
根底から、すべて覆してしまうなんて。
(俺が誰かを甘やかすなんて、考えたことがなかったよ)
他人が何を思い、どんなものを望むかなんて、分かり切っていて、どうでもいいことだったから。
自分が誰かを甘やかしたいなんて願いを、持つなんて思わなかった。
「思わなかった」ことを「思う」だけで。
新しい物語は柚木の中で、ゆっくりと綴られ始める。
「……甘えさせてやるって、言っただろう?」
離れそうになる香穂子を、無理矢理に抱き締め、繋ぎ止める。戸惑うように柚木を見上げた香穂子が、少しだけ逡巡した後、そのままゆっくりと華奢な身体を預けた。
腕の中で。
震える温もりと。
柔らかに脈打つ、確かな鼓動。
柚木が生まれて初めて。
自分がこれまでに掴んで来た何を犠牲にしたとしても、手に入れたいと願ったもの。
『生きる』とは。
『生きる』とは、きっと、そんなふうに。
心の底から願うことを、叶えるために綴っていく物語で。
祖母が柚木のために描いた物語をなぞるだけでは、きっと自分は『生き』られない。
……そこに柚木が願うものは、何一つないから。
だから、お前が強がる時。
恐れる時、辛い時。
お前が俺にとって、『そう』であるように。
俺も、お前にとっての『安らげる場所』であり続けるから。
「……柚木先輩?」
ただ、黙って自分を見つめる柚木に、香穂子が心配そうに目を細める。細い指を柚木の綺麗なラインを描く頬に添えて、伺うように首を傾げる。
「大丈夫ですか?」
「……何が?」
「えっと……何となく」
尋ねられても答えられなくて、香穂子は困ったように柚木の腕の中で俯いた。
そんなふうに、本当は。
お前の方が、俺を簡単に甘やかして。
今まで築き上げて来た、『柚木梓馬』という完璧な偶像を。
ただの、弱い一人の男に変えてしまうから。
「……柚木先輩?」
「……大丈夫じゃない、から」
ぽつりと呟くと、えっ、と腕の中の香穂子が驚く。そんな素直な反応に苦笑しながら、柚木はただ、香穂子を抱き締める両腕に、力を込める。
「……もう少し、お前の方が駄目な振りをして、このままでいさせてくれない?」
本当は、知っている。
……本当はいつだって、お前の方が俺なんかを切り捨てていける。
もっと楽な甘いだけの優しい恋を選ぶことができる。
怖がるのも、甘えるのも。
……縋るのも。
多分、本当はいつだって俺の方。
今日の偶然のように。
ほんの少しの温もりを分け合うだけの、ささやかな幸福を。
何だかんだと悪態をつきながら。
嬉しがっているのは、俺の方。
雷鳴は遠ざかり。
徐々に雲に覆われていた暗がりの世界は、眩い光を取り戻していく。
腕の中の香穂子は、その光に否応なく照らし出される柚木の弱さなど、見ない振りをして。
ただ、柚木という束縛を受け入れる。
時間は止まることなく。
このささやかで幸せな抱擁も、いつかはほどかなければならない瞬間が来るけれど。
それを一瞬の幻で終わらせないために。
柚木も。そして香穂子も。
きっと、どうしようもなく。
足掻き続ける。
たとえそれが、容易くは歩いていけない茨道であろうと。
その道の途中にどんな高い壁が立ち塞がっていようと。
……この腕の中の温もりを、永遠に自分のものにするために。
本当に、柚木自身が願って選び取る。
予定外の、これまでとは違う物語を綴るために。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:2008.8.21 加筆修正:2010.5】
月日メインサイトなのに「これでいいのか?」と迷う部分はあれど「箒星」10万ヒット記念創作でございます(笑)記念創作を書くにあたって、リクエストを取らせていただきましたが、票数としては柚木と月森の糖度高めが同票で、柚木に関しては「切な目で!」というリクエストもいくつかいただきましたので、得票数では文句なしのトップで柚木創作を書くことになりました。てっきり月森って言われると思ってたんですが、これはもうリクエストして下さった方々の言ったもん勝ち(笑)
創作にプラスして、これからのサイト運営での意思表示的なものも絡めて、ちょっとだけ切な目要素も入れて(笑)書いてみました。これが辺境サイトに遊びに来て下さった方々へのお礼になっていればよいのですが(^^;)
そんなわけで(どんなわけ)これからも「箒星」並びに渡瀬和弥をどうぞよろしくお願い致します!


