こんなことなら、すぐに済むからわざわざ月森が来る必要はないと笑った香穂子の言葉に逆らってでも、一緒に店の中へ入ってしまえば良かったと、少しだけ後悔をする。五分もせずに、小さな紙袋一つを片手に持って表に出て来た香穂子に、そんな愚痴を零したら、彼女は何だか、楽しそうに声を上げて笑った。
少し歩いて、人気のない夕暮れの海辺の公園まで。ベンチに座るほどでもないから、車の侵入を遮るための、鉄製の低い柵に、二人並んで身体を預けた。
夕飯もあるから、一個全部は食べられない。でも、ちょっとだけ間食をしたいという香穂子に付き合って、月森は香穂子が器用に半分に千切って分けた中華まんを、包まれていた紙袋ごと、香穂子から受け取る。むき出しの、もう半分の中華まんを、熱そうに指先で摘んだ香穂子が、それでも、とても幸せそうに笑って、ぱくんとそれを頬張った。
「月森くんが、美味しいって言ったのが、ホントはすごく、意外だったんだよ」
半分この中華まんを二人で仲良く食べ終えた後、ふと思い出したように香穂子が言った。
それは、少しだけ昔の話。買い食いをしたことがないという月森に、家まで送ってくれたことと、香穂子の空腹を満たすための寄り道に付き合ってくれたお礼とお詫びに奢った、中華まんを一緒に食べた時の事。
「だって、コンビニのだし。前に月森くんちに行った時に出してくれたケーキとか紅茶とか、すごくいいものだったから。後から、余計に後悔しちゃった。月森くんの口に合わないもの食べさせて、なおかつ、奢りだから無理に「美味しい」って言わせちゃったんじゃないかって」
半分冗談で。
半分本気で、香穂子はあの時のことを振り返ってみる。
香穂子の言葉に、月森は苦笑しながら、手の中に残った空の中華まんの包み紙を見つめる。
「……そうだな。本当は、今でも。……これが、それほどまでにうまいものなのかというのは、……分からないんだ」
冷静に、味だけ切り分けて考えてみると、誰もが買える場所で、手軽な値段で消費されていくものなのだから、特別に味がいいというわけではないと思う。
だが月森は、この中華まんをとても美味しいと思いながら食べている。
……後で、いくら思い出してみても、その味がどうだったかなんて、明確には思い出せないのに。
それでも、『美味しいもの』だという印象が、この食品に植え付けられている。
……それは、きっと。
「……君がいつも、美味しそうに食べているからかもしれないな」
顔を上げて、隣に佇む香穂子を見つめながら。
月森は優しく微笑んだ。
あの時も。
本当に、美味しかったのかどうかは、よく覚えていない。
ただ、手の中に収まったものが、とても暖かくて。
目の前で、それを食べる香穂子が、幸せそうに笑っていて。
それまで食べたことのなかったものを、その幸せそうな笑顔につられて、恐る恐るかじってみた。
口の中に広がった味は、とても、暖かくて。
何だか、心まで暖まって。
美味しいような。……幸せなような、そんな気持ちがした。
特に食にこだわりがあるわけではないけれど、両親や祖父母の仕事柄、それなりに質のいいものを食べて来た自覚はある。味覚に異常があるわけではないから、世間一般に美味しいと分類されるものは、確かに美味しいものだと感じていた。
それでも、月森は。
如何に質のいい素材で、如何に丁寧に、的確に調理して、作り上げられた最高級の料理であろうと。
食するのが、たった独りであれば。
それが、どれだけ味気ないものになるのかを知っている。
その味を、分かち合うものがいなければ。
ただ、生きていくために必要な栄養を摂取するだけの単純な繰返しの義務にしか過ぎないものだと。
……知っているのだ。
「君が、美味しそうに、幸せそうに笑って食べているのを見ていたら、何となく、とても美味しいんだという気分になった」
「うーんと。……それって、ちょっと私、馬鹿みたい?」
困ったように眉間に皺を寄せ、香穂子が溜息をついて空を睨み付ける。
月森は、小さく笑って双眸を伏せ、そっと腕を伸ばす。すぐ傍にあった香穂子の細い指先を手繰り寄せ、緩く繋いだ。
「……そんなことはない」
柔らかく呟いた言葉は。
冬の冷たい空気に、ふわりとした白い息をの存在形作って、儚く消えた。
大量生産で、その辺りの誰もが当たり前に買える場所に売ってある、不特定多数の人の味覚に合わせてあるだけの、ハズレがない代わりに、特出してどこが優れているというわけでもない、そんなものを。
これまでに、一度も食べたことがないと錯覚するくらい。
思い出の中で、何ものにも代え難い、大切で、幸せな味に、変わるのは。
きっと、君が笑っていたから。
美味しいって、素直に。
……幸せそうに。
笑って、いたから。
まるで、その笑顔がスパイスみたいに、ありふれている味を、特別な味に変えてくれたのだ。
……それは、まるで魔法みたいに。
「……月森くん」
緩く繋いだ手を、香穂子が同じ強さで握り返して来る。
冷たくもなく、熱くもない。
先ほど食べた中華まんの温もりを、ほんの少し宿したような、優しい、優しい。
……暖かい手。
「……今日も、美味しかった?」
下から、月森を覗き込むように見上げ、香穂子が尋ねて来る。
……本当は。
冷静に思い返してみれば、口の中に残っている味は、やっぱりありきたりの既製のもので。どこが美味しかったのかを説明しろと言われてしまうと、絶対に言葉に詰まる味でしかなかったけれど。
繋いだ手の温もり。それと同じ暖かさは今も胸の中に燻っているから。
「……ああ」
月森がしっかりと頷くと、嬉しそうに香穂子が笑う。
……その、幸せそうな笑顔を見ることが。
やはり、月森にとっても幸せで。
独りきりの食事の、あの味気なさを知っている。
それが、どんなに美味しいものでも。暖かいものであったとしても。
寂しくて、味気ない食事は、一つ呑み込むのにも苦しくて。
だけど、今はもう一つの味を知っている。
素材がどんなものであったとしても、独りではなく、誰かと共に食べるということで。
その、一緒に食べる誰かが、美味しそうに食べて、笑っていてくれるなら。
それはきっと、幸せの味。
あとがきという名の言い訳
オフ活動の一環で「会員制配布本」というものをやっていた時に、6回以上配布を希望して下さった方のリクエストに応じて書き下ろしていた短編です。
コンビニ商品に対しての渡瀬の思惑が透けて見えます(笑)が、渡瀬はコンビニの諸々好きなんですよ。
イイカンジのレストランに一人で入るよりは、数人でコンビニ弁当食う方がいいなあと思ったりしますが、話が違いますかそうですか。


