香穂子と一緒に過ごす中で、志水が一番好きだと、そう思っていたはずの時間。
……言葉が過去形になるのは、ここ最近、それがどうもしっくりと来ない気がするからだ。一番好きな時間。そのはずなのに。
心の中で、今、この瞬間が、一番幸せな時だと思ってみても。
何故かそれに素直に頷けない自分。
どうしてだろう。
今でも、こうして音を重ねる時間が、嬉しいと。
幸せだと思う心に、変わりはないはずなのに。
「うわ! すっごく長い時間弾いてたんだね」
数曲弾き終わって、時計を確認した香穂子が、驚いたように言った。ほんの数十分くらいのつもりだったのに、もう1時間を超えている。
少し休憩しようかと促すと、志水も「はい」と素直に頷いて、チェロが倒れないようにその場に丁寧に固定し、のんびりとした足取りで、香穂子の側に歩み寄ってくる。
買っておいた未開封のペットボトルのキャップを捻りながら、香穂子が少し疲労の色の強い溜息を付いた。
「……疲れましたか?」
同じようにペットボトルを開ける志水が、ほんの少し眉間に皺を寄せて、香穂子に尋ねる。
細身だけれど、それなりに楽器を弾き慣れていて、そしてやっぱり男である志水と、華奢な香穂子では根本的な体力が違う。
演奏が上手く出来ていると、志水も香穂子も後先考えずに夢中になるタイプなのだから、香穂子の疲労の度合いには、志水の方が気を付けていなければならなかった。
自分が平気であったとしても、同じように香穂子が平気だとは限らないのだから。
そして、香穂子は例え自分が辛くても、それを口に出す人ではないのだから。
「あ! だ、大丈夫だよ!」
志水の気遣いに、慌てたように香穂子が片手を横に振る。それでも志水が心配そうにじいっと香穂子の顔を眺めていると、少しバツが悪そうな表情で、香穂子が身を縮めた。
「う……あの、ちょっと、疲れはしたんだけど。でも、楽しいから!」
ぐ、と片手を拳に握り締めて、香穂子が力説する。
「志水くんのチェロと、私のヴァイオリンが、重なって、綺麗な音楽になってくの、楽しいの。ホントに、充分、幸せなんだよ」
軽く首を傾げて笑った香穂子が。
本当に。
とても、とても可愛らしくて。
(可愛いって……そう言ったら、怒るのかな)
それとも、頬をほんのりと赤く染めて。
恥ずかしそうに、……嬉しそうに。笑ってくれるんだろうか。
(……ああ、そうか)
難解な数学の問題を、公式を使って、もつれた糸を解くみたいにして、答えを導き出すみたいに。
すとん、と正しい自分の気持ちが、心の中に落ちて来た。
(もう、足りないんだ)
香穂子が、好き過ぎて。
愛おし過ぎて。
もう、香穂子のヴァイオリンだけでは足りない。
笑い顔も、怒った表情も。
全部、全部欲しいんだ。
ピアノの上に、志水がゆっくりと持っていたペットボトルを置いた。
咄嗟に訳のわからない香穂子が、きょとんとした表情で志水の一挙一動を見守る。
そんな香穂子に向き直って。
空いた掌で、その柔らかな曲線を描く頬に触れた。
驚いたように目を見開いた香穂子に、深く頓着することはなく。
志水は頬を寄せて、香穂子の唇に柔らかく口付けた。
香穂子は増々目を大きく見開いて、視界一杯に広がる志水の伏せられた長く、綺麗な睫毛に見とれている。
ただ、優しく触れるだけの、初めての口付けは。
とても、とても長い時間、そこにあったような気がした。
ゆっくりと唇を離し、志水がふわりと目を開ける。その至近距離の視線の先で、香穂子の大きな目が、潤んで揺れる。
「……ごめんなさい」
反射的に、志水は謝罪の言葉を口にした。
何だかとても自然に、当たり前みたいにキスしたけれど、香穂子の意志を確認したわけじゃなかった。
「……謝らないで、志水くん」
ふるふる、と首を横に振って、香穂子が慌てたように言った。
「これは……嫌だったとか、そんなんじゃないの。何か……嬉しくて」
発作的に浮かんできた涙を、香穂子は指先で押さえて拭う。
「……嬉しい、ですか?」
戸惑って尋ねる志水に、香穂子がうん、と頷いた。
「志水くんが好きでいてくれるのが。……私の、ヴァイオリンだけじゃなかったんだなって、初めて実感出来たような気がするの」
志水の意識が向かう先は、いつだって音楽だったから。
笑いかけられても。
好きですと告げられても。
いつも香穂子は、何となく自信を持てないでいた。
音を重ねる幸せだけでは。
不安を拭えなくなっていた。
「僕も、そうです」
ふわりと微笑んで、志水は香穂子の片手を取る。
力を込めて、引き寄せて。
両腕の中に、しっかりと香穂子を抱いた。
「今までは、音を重ねるだけで充分幸せだったのに。……それだけで、香穂先輩の全てを、手に入れたつもりでいたのに」
こんなふうに、想いは育っていく。
満たされた欲望の、その先へ伸びていく。
もう充分だと想っていた幸せが、まだ足りていなかったことに気付く。
「好きな人に、触れたくなるって、……こういう気持ちなんですね」
意識しないで。
頭では考えないで。
喉が乾いたら、水を飲むみたいに。
眠くなったら、瞼が重く落ちるみたいに。
本能的なものが促す気持ち。
「きっと、これからはもっと、香穂先輩に触れたくなるんです」
少し困ったように笑った志水が、大人びて見えた。
知らない顔。
新しい顔。
知るたびに、どんどん。
その知らなかったものを欲しいと願って。
満たされた側から飢えていく。
それが、恋心というものなのかもしれない。
……そんなことを、香穂子は思う。
だから。
「そんなの。……きっと、私も同じだよ……」
志水のシャツに顔を埋めて、香穂子が静かに目を閉じる。
そんな香穂子に苦笑する志水は、もう一度、香穂子の頬に片手を添え、上向けた彼女の唇に、優しい二度目のキスを落とす。
今の二人の飢え加減を、満たすのに相応しい……ただ、そっと触れるだけの口付けを。
あとがきという名の言い訳
以前、オフ活動の一環でやっていた、会員制配布本に登録いただいていた方への進呈物です。6回配布本を受け取っていただくと、リクエストに沿った創作をプレゼントしていました。
こちらは、「甘めの水日」という指定で書いたもので、月森にも同一テーマの作品があります。機会があれば、攻略キャラ全員の分書いてみたいなあ。


