そんなふうに想うようになったのは、いつからだっただろう。
初めは、ただ同じ想いを返してもらうだけで良かった。
自分が彼女を「好き」だと想うのと同じ強さで、彼女に自分を「好き」だと想ってもらえるなら。
幸せなこと、楽しいこと、嬉しいこと。
……優しい音を重ねること。
誰かとそうしたいと思う時、彼女が真っ先に思い浮かべるのが自分であれば、それだけでもう充分だと。
……そう信じていたのに。
満たされれば満たされるだけ。
まだ空いている、飢えているものを見つけて。
その隙間を埋めてしまいたくなるのだと。
そういう本能を、誰しもが持っているのだと。
……気付いて、しまった。
「君に、キスがしたいと言ったら、……嫌がられてしまうだろうか」
穏やかな休日の午後。月森の自室。
前触れもなしに、切り出した月森の言葉に、香穂子は一瞬ぽかんと口を半開きにし、次の瞬間、両手の中に抱えていた楽譜の束を、ばさっと派手な音を立てて取り落とした。
そのまま息を呑んで呆然とする香穂子に小さく溜息を付いて、月森は身を屈めて香穂子が取り落として床一杯に広がった楽譜を拾い上げる。
「……すまない、不快なことを聞いてしまった」
「イヤ、ちょっと待って。そうじゃなくてね?」
明らかに落胆した月森の声に、香穂子が慌てて突き出した両手を横に振って否定の意を示す。身を屈めたまま上目遣いに香穂子を見上げる月森の視線の先で、香穂子が真っ赤になって片手の甲で口元を覆う。
「ふ、普通、そういうの改まって聞かないよね……?」
「そうなのか? ……『普通』というものが、どういうものなのかは、俺は知らないが」
香穂子に出逢うまで、そんな色恋沙汰には興味がなかった。
自分には関係のないことだとすら思っていた。
だから、世間一般の恋人同士が辿る道筋がどんなものなのかは、月森は知らない。
……だが。
「……俺一人が、恋愛をしているわけではないと……そう思うから」
集めた楽譜を手の中で揃え、月森は身を起こして、香穂子にその束を差し出す。反射的にそれを受け取った香穂子を見下ろすようにして、少しだけ寂しさの色を混ぜた、複雑な微笑を浮かべる。
「俺が、君にキスをしたいと思っても、君はそうじゃないかもしれない。……一方的に、俺の気持ちを押し付ける真似をしたくないんだ」
性別の差がある以上、本当はいつか、月森の欲望が香穂子を簡単に追い抜いてしまうことを、月森はもう知っていた。
近付きたい、触れたいと思う欲望は、一つ満たされただけで終わるわけではないことを、知ってしまったから。
今、一つの願いが叶っても、結局それ以上のものを、自分は香穂子に求めてしまうだろう。
だから今は。
香穂子との足並みが、きちんと揃ううちは。
彼女と一緒に、同じ速度で、歩んでいたいのだ。
「だから、君が嫌だと言うのなら、俺は何をする気もない。……ただ、そうしたいと俺が思っていることを、君がこれからは分かってくれていたらいいとは思うが」
月森の静かな言葉に、香穂子は何かを言いかけて、口を開き。そして何も言えずに口を噤んで、俯く。
しばらく香穂子の様子を伺っていた月森が、仕方なさそうに小さな溜息をつき、苦笑しながら、慰めるみたいに香穂子の頭を片手で軽く撫でる。
優しくて、繊細な。
あの、ヴァイオリンを生み出す指。
その指先が、優しく香穂子の髪を撫でる感覚に、香穂子はぎゅっと目を瞑る。
(嫌なんかじゃないよ)
好きな気持ちは同じ。
触れたい、近付きたいという気持ちも。
月森の言うように、きっと徐々にその気持ちの速度は差が付いて。そのうち追いつけなくなるのかもしれないけど。
まだ、大丈夫。
まだ、追いつける。
恥ずかしいけれど。
戸惑う気持ちもあるけれど。
それでもきっと、触れたいと願われることは、幸せなことだ。
「…………い、いい、よ」
蚊の鳴くような細い声で、香穂子が言った。それは微かな微かな、喧噪の中にあれば簡単にかき消されてしまうような小さな声だったけれど、静かな月森の自室では、きちんと空気を震わせて、月森の耳元まで届く。
「……香穂子?」
香穂子の言葉の意図を取り損ねたのか。
……それとも、再度香穂子の意志を確かめるためだったのか。
問うように香穂子の名を呼んだ月森に、香穂子はゆっくりと顔を上げて。
……羞恥に頬は赤く染まったままだったけれど、それでも真直ぐに月森の顔を見つめ返して。
はっきりと、唇を動かして、月森に伝える。
「キスして、……いいよ」
一瞬呆気に取られた月森が、ふと呆れたように破顔する。
照れたような、嬉しそうな月森の笑顔が、香穂子も何だか嬉しくて。
ゆっくりと伸ばされた月森のあの指先が、頬の曲線をなぞるのを心地よく感じながら、誘われるように目を閉じる。
最初に感じたのは、穏やかな熱。
徐々に、柔らかさとか、潤いとか。そういう感触を、香穂子は自分の唇で、直に実感していく。
普通、ファーストキスっていったら、こんなふうに余裕でその瞬間を堪能することなんてないんだろうなあと、幸福に酔う脳裏の片隅で、のんびりと香穂子は考えている。
きっと、突然に降ってくるその瞬間は、それはそれで素敵なものなのかもしれないけど。
こんなふうに、しっかりと心の準備をした上で、迎えるファーストキスも、悪くはない。
何だか、耳のすぐ側で脈打ってるみたいな、早鐘みたいにうるさい鼓動の、その早さは。
多分どんな状況でも変わりはないはずだし。
ゆっくりと唇を離し、月森はふわりと閉じていた瞼を上げる。
至近距離の視界一杯に、無防備なままの香穂子の顔が広がっていて。
嬉しくて、幸せで。
何だか笑いが込み上げてしまう。
少し遅れて目を開けた香穂子が、まだすぐ側にあった月森の顔に、驚いて目を丸くして。
それから、今にも吹き出してしまいそうな月森の様子に気が付いた。
「ふ、普通、キスの後の間抜け顔、こんな至近距離で、しげしげ眺めたりしないよねえ!?」
照れ隠しの為か、涙目で真っ赤に頬を染め、大声で抗議する香穂子に、溜まらないと言ったように、月森が声を上げて笑い出す。
ちょっと、人の話聞いてる? と苛立たしげにフローリングの床を踏み鳴らす香穂子に、珍しく大笑いで息も絶え絶えの月森が、「俺は『普通』が分からないから」と、しれっと言ってのけた。
頬を膨らませて不機嫌になる香穂子が、月森邸の上品なデザインのスリッパの踵で。
痛くないようにと気を使いながら、月森のそれの、爪先を踏んづけた。
あとがきという名の言い訳
以前、オフ活動の一環でやっていた、会員制配布本に登録いただいていた方への進呈物です。6回配布本を受け取っていただくと、リクエストに沿った創作をプレゼントしていました。
こちらは月日のファーストキス話+バカップル、というリクエストをいただいておりました。オフラインで月日のファーストキス話は書いていたので、これは当サイトではパラレル的ですね。
志水にも同タイトルの創作があります。


