花の名前

月森→←日野

 目の前に差し出されたコサージュと、それを差し出してくれた人との顔を、香穂子は目を丸くしたまま見比べる。
 状況がよく呑み込めていなかった。どう反応したらいいのか分からずにその場に立ち尽くしている香穂子に、目の前の人物は、何かを誤魔化すように、一つ咳払いをして……。
「踊らないか?……君さえ、よかったら」
 どうしても駄目なら、それでも構わないから、と。
 妙に遠慮がちに、月森は香穂子を後夜祭のワルツへと誘った。




「ちょっと、予想外で……びっくりしちゃった」
 少し緊張したように表情を強張らせて、真剣に辿々しいワルツのステップを踏む香穂子がぽつりと呟いた。
「予想外?……どうして?」
 こちらは優雅に慣れた雰囲気でステップを踏む月森が不思議そうに尋ねる。……ダンスが妙に様になっていると思っていたら、父親の仕事関係のパーティで踊らされることもあるから、幼い頃から一通り教えられてきたのだと言う。
「君は、ワルツは今日が初めてなんだろう?……その割には、上手く踊れていると思う。踊るつもりがあったからじゃないのか?」
「万が一誘われて、相手の子の足とか踏みまくっちゃったら申し訳ないからって、暇な時に天羽ちゃんと冬海ちゃんと一応練習をしてたんだけど……まさか、本当に誘ってくれる人がいるなんて、思ってなかったから」
 言いながら、香穂子は必死で足元を見つめ、口の中でぶつぶつとワルツのリズムを唱えながら、ステップを踏む。月森の足を踏まないようにするのに一生懸命で、月森の肩や掌に預けた指先にも、妙な力が入っている。
 ……幾ら練習をしていようと、ワルツのステップが一朝一夕で簡単に身につくものではないことを、月森も知っている。相手に変に気を使って疲れるくらいなら、後夜祭に出ないという選択肢もあっただろうに。
 そう考えて、月森はほんの少し、嬉しくなる。
 もしかしたら。……もしかしたら、彼女の方も。
 他の誰でもなくこの自分が、彼女をワルツに誘うことを、ほんの少しでも期待して……そうして、付け焼き刃でありながらも、自分を気づかって、ワルツの練習をしていてくれたのかもしれないと考えると。
「……日野」
 ぽつりと低く呟き、月森は緩く、添えるように支えていた香穂子の手を、ぎゅっと強く握り治す。突然強く手を捕まれて慌てる香穂子が「な、何!?」と大声をあげ、弾かれたように顔を上げた。
「音楽をきちんと聞いて、もう少し自由にステップを踏んでくれ。……それで、多少俺の足を踏んでも、構わないから」
「あ、あの。……でも」
 戸惑う香穂子に、月森は笑った。
「せっかく練習までして、今ここに、いるんだろう? だったら、もっとワルツを楽しまないと」

 いつもだったら、これは香穂子の台詞だ。
 『完璧』に固執せず、自由に、伸びやかに。
 感情に任せて、音を『楽しむ』。

 ぐ、と香穂子を支える両手に力を込めて、月森が香穂子をリードし始めた。音楽に合わせてステップの速度が上がり、香穂子があわあわしながら、懸命に月森のリードに付いて行く。
 足はもつれて、何度か月森の足の甲をパンプスの先で軽く踏んで、蹴って。そして。
 香穂子は徐々に、妙に楽しくなって来た。
 思わず笑い出しながら、あの天羽たちとのスパルタ特訓が全く意味が無くなる、でたらめなステップを踏む。
 そうしたら、ようやく。
 先程まで、正しいステップを踏むことに一生懸命で、鼓膜を素通りしていた。
 可愛いワルツの旋律が、耳に届いた。

「……何か、不思議」
 月森に引っ張られるようにして、強引なステップを踏む。
 それが、楽しくて。……幸せで。
 花が開くように朗らかに笑う香穂子が、月森を見上げた。
「後夜祭、こんなに楽しいって、思ってなかった」

 天羽に、絶対に後夜祭参加しなさいよと念を押され、冬海と共に「どうせ壁の花だよね」と半分拗ねて、一夜漬けのノリで、とりあえず自分にとっては難解なステップの練習をしてみたものの。
 まさか本当に、自分を誰かがワルツに誘ってくれるなんて、思わなかった。
 例え誘われたとしても、こんなに楽しく踊れるなんて、予想もしなかった。
 上手く出来なくて、相手の足をこれでもかと踏んで痛い目に合わせて、迷惑をかけるだけだって、そう思っていた。
 そういう意味では、正しく香穂子の予測通りになった、このハチャメチャなワルツを。
 こんなにも、楽しいと思えるのは。

(……きっと、踊ってるのが月森くんだからだ)

 ……誰からも誘われるわけないと、最初から諦めていた。
 それでも万が一、誰かから誘われるとするならば、どうせならその相手は月森がいいと、勝手に願っていたけれど。
 そもそも月森はこういうイベントを好む人ではないし、きっと参加はせずにさっさと帰ってしまうのだろうと思っていた。
 それでも、ほんの少しだけ。
 誘ってくれたらいいな、と期待していた。
 生花のコサージュを差し出して『一緒に踊らないか』と、声をかけてくれたなら、と。
 ……それは、香穂子が心にこっそり抱いているものと同じ気持ちから来る、甘い動機ではなくて。
 ただ少し仲がいい友達相手だからという理由でも、構わないから。
 もう、来年の今頃には、この学院にいない月森との。
 ささやかな想い出が、欲しかった。

 だから、きっと今が楽しい。
 心のどこかにほんの少し、寂しく切ない気持ちは息づいていても。
 それでも、今二人がワルツを踊る現実がなければ。
 この、くすぐったくて、甘くて、幸せで。
 浮き足立つような気持ちも味わえなかった。

「月森くんのおかげだよ」
 照れたように頬を染め、満面の笑みでそう言う香穂子に、月森は目を細めて、つられるように微笑む。

 その笑顔に、香穂子は小さく息を呑む。
 それは、あまり普段は月森が見せることのない。
 本当に、心から楽しそうな……無邪気な笑顔。

「そうだな、俺も楽しい」
 デタラメなステップで構わないから。
 ただ音楽だけを聴いて、ワルツを楽しめだなんて、およそ自分にはそぐわない言葉。
 ……きっと、香穂子が相手でなければ言えなかったこと。

「……君のおかげだ」



 花開くような互いの、曇りのない笑顔に。
 またこっそりと、お互いの心の中に、痛く、苦く。
 そして、どこまでも甘美な蜜を持って、小さな小さな花が根付く。
 根付いて成長して、やがて心の中で咲き誇る。

 もう遠くない未来に、逃れようがないと思い知らされる。

 恋情という、その花の名前。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:08.11.24 加筆修正:10.5】

友人のイラストに付けさせていただいた創作です。イラストはクリスマス用のものだったんですが、途中段階のイラストを拝見させていただいた時に、衣装よりもむしろ楽しそうに踊ってる二人の表情の方が印象的で、思い付いたのはこんな話……(^^;)快く受け取って下さった友人に感謝です。残念ながら、友人のサイトが閉鎖されてしまいましたので、イラストは今は閲覧が出来ません。

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