次の休日には、最近ようやく迷子にならなくなった、複雑に入り組んだ路地を存分に歩いて探検し、お店の場所や取り扱っている商品の種類等をもっと詳細にリサーチしておかないといけないと考える。数年間の一人暮らしを経た現在、そういう小さなことを把握しておくことが意外に生活の基盤を作るのだと香穂子は知っている。馴染みのお店、風景、習慣。そういう慣れ親しんだものを作ることで、自分が暮らす街は、より一層自分自身に馴染んでいくような気がする。
(今度は私だけじゃないんだし……)
香穂子と全く同じ条件で生活の拠点を移した蓮のことを香穂子は考える。新居を探す際に蓮が不動産業者に提示した条件は、『車の出入りがしやすい場所である』こと、『駅の近くであること』、そして『セキュリティが充実している』というものだった。前者は移動の多い自分の仕事を考慮して。そして後者は、蓮がいない間、自宅に残される香穂子のことを慮ってのことなのだろう。
だからこそ、新居に慣れることにすらなかなか時間を割くことができない蓮のため、妻である香穂子が出来るだけ早くこの新しい環境に慣れて、蓮が同じように、この街で疎外感を感じることなく、穏やかに過ごせるように、少しでも役に立てればと思うのだ。
お洒落な外観で形成された自分のマンションの麓に立ち止まり、香穂子は上空を見上げる。7階の中心にある自分たちの部屋。いつものことだけれど、今日もその窓に暖かな明かりは灯されていない。仕事の関係上、香穂子の方が蓮より早く部屋を出て、蓮より早く帰宅するからだ。
せっかく籍を入れることが出来ても、なかなか生活のリズムを合わせることが出来なくて、いまだにすれ違いの生活が続いている。同じ部屋で暮らしているのに、顔すら合わせない日もある。それは、香穂子と蓮が離れ離れの間に育んで来た、それぞれが生きるべき道があるが故に。
だが、確かにそれは寂しいことなのだけれど、それでいいと香穂子は思っている。
未来の保証が何もなかった、あの離れ離れの四年間の日々を思えば、今の状況は恵まれ過ぎているとすら思える。
何故ならば、互いを想い合うということに少しの躊躇もしなくていいのだから。
想い続けていても報われる保証のない、あの絶望的な日々があるから、今は寂しいという感情すらも、贅沢なことに思えるのだ。
斜に掛けたファーのバッグの、内側にあるミニポケットから自室の鍵を取り出し、背後の人の気配に気を配りながら、香穂子はドアの鍵を開け、ドアの隙間から身を滑らせて中へ入り込む。後ろ手にドアを閉めると、すぐにオートでかちりと鍵がかかる音がして、ほっと息をついた。
蓮の熱烈な追っかけが入り込む可能性があるから出入りには重々注意しろと、渋い顔で香穂子に注意を促したのは、蓮のマネージメントをしている香穂子たちより少し年上の男性だった。
蓮のヴァイオリンの才能に惚れ込んで、彼のマネージメントを引き受けたというその男性は、どうも香穂子の存在をあまり良くは思っていないらしい。ようやく新進気鋭の実力派ソロヴァイオリニストとしての仕事が軌道に乗り、認知度が増している最中なのに、家庭を持つことでヴァイオリン一本に集中出来ないであろう状況を危惧しての事だ。
二人の結婚に際して、彼だけではなかった周囲の反対を押し切ったのは、蓮本人だった。
「香穂子という存在があったからこそ、俺は自分のソリストになる夢を叶えられたんです。この先、プライベートの『月森蓮』を支えてくれる存在は、俺には彼女以外には考えられない。……もちろん、まだヴァイオリニストとしては駆け出しの俺が、仕事に対して贅沢が望める立場だとは思っていません。そうして俺が仕事に集中すれば、彼女に寂しい想いをさせることになるのも分かっています。ですが……だからこそ、せめて。籍を入れることでこれから寂しい想いをさせてしまう彼女に、安心を与えたいんです」
そう真摯に訴え、早過ぎる結婚だと眉をひそめた関係者一同を説き伏せてくれた蓮に、その時香穂子は彼のために自分ができることは何でもやろうと、心の中でこっそりと誓ったのだった。
「……といっても、私が出来ることなんてたかがしれてるんだけどね……」
苦笑してひとりごちながら、香穂子は自分たちの部屋番号がついたドアの鍵穴に銀色の鍵を突っ込んで、くるりと回す。またもやマネージャーの言葉を思い出して、きょろきょろと辺りを確認の上で、ドアの奥に滑り込んだ。
後ろ手にしっかりと施錠する。蓮の帰宅は何時になるか分からないからチェーンをかけることは出来ないけれど、ようやく気を張らなくていい空間に辿り着いて、ふう、と大きく安堵の溜息をついた。
陽が落ちた部屋はしんと静まり返って仄暗い。冬場はこれが嫌だな、と香穂子は顔をしかめた。
幼い頃からいつも誰かが待っていてくれる家に帰宅していた香穂子には、この帰宅した時に灯る明かりもなく、誰も「お帰り」を言ってくれない状況が、一人暮らしをしていた頃から何よりも寂しく感じることだった。それでも、一人暮らしの頃は小さな明かりを付けっぱなしにしたり、それなりの自己防衛をしていたのだが、蓮と暮らし始めてからはそういうことも出来なくなった。家を出るのは蓮の方が後で、彼はしっかりと火の元と戸締まりを確認して出ていくためだ。おそらく、香穂子がそういう心情を吐露すれば、蓮は気にかけてくれるだろうが、それはとどのつまり、香穂子が彼に対して弱音を吐くということだ。
香穂子は、彼が帰るべき場所を守る立場の人間だ。香穂子自身が、彼が周囲の反対を押し切って結婚を決めてくれた時にそう自分の心に誓った。だからこそ、どれだけ辛かろうが、寂しかろうが、絶対に彼にはそんな弱音を見せたりはしない。
「ただいま」
虚しく室内に響く言葉を習慣的に吐いて、香穂子は玄関の段差に腰掛けて、日中の仕事を終えて少しむくんだ両脚を、ぴったりとしたブーツから抜き出そうと格闘を始める。左脚を抜いて、脇にブーツの片方を置いて。
そして、ふと瞬きをした。
香穂子が置いたブーツの隣に、几帳面に並べて置かれた蓮の革靴。これは、いつも彼が出かける時に履いているはずのもの。
朝、ここでブーツを履く時に、当たり前のように置いてあったそれが、また同じようにそこに存在していた。
(あれ……?)
訝しんだ香穂子の背後から届く。
聞き慣れた、愛おしく、優しい声。
「……おかえり」
びくっと身を震わせて、香穂子は反射的に振り返る。
すると、誰もいないと思い込んでいた暗がりの中で、少しぼんやりとした表情の蓮が、佇んでいるのが分かった。
「え……ええ!?」
訳が分からず、香穂子が狼狽する。緩慢な瞬きをする蓮が、そんな香穂子を見て「そこまで驚くことはないだろう」と苦笑した。
「だって、明かりが消えてたから、まだ帰ってないと思ってた。……今日は、仕事じゃないの?」
「……ああ、そうか。もう夕方なんだな」
香穂子に指摘され、蓮は今ようやく辺りが暗いことに気がついたようだった。壁のスイッチに手を伸ばし、ぱちんと音を立てて部屋の明かりをつける。蛍光灯が数度瞬いて、途端に二人を取り巻く風景は明るい光に満ちた場所になった。
「今日は雑誌の取材だけで、早く終わったんだ。人と応対する仕事は気疲れしてしまって、帰って来てソファで休んでいたら、どうやらそのままうたた寝していたようだ。……そういえばお互い、スケジュールを伝えておく時間もなかったな」
「……そう、なの……」
驚愕の波が引いてしまって。
状況が呑み込めたら、途端に先程の蓮の言葉が、香穂子の脳裏に蘇って来た。
蓮が告げた、「おかえり」の言葉。
……おそらく、初めて蓮からもらった言葉。
(蓮の、『帰る場所』にならなきゃって思ってた)
蓮は、きっと香穂子をそういう存在として必要としてくれたから。
飾らずに、気負わずに、彼が心地よく過ごせる場所。
そんな、彼を包み込む存在として、大きく居なければいけないのだと思い込んでいた。
(……そんなのは、勘違いだ)
香穂子は強い人間じゃない。ただ弱くて、臆病な人間だ。
四年間、離れ離れの空白がありながら、どうしても新しい道へ踏み出すことが出来なかった……蓮を想い切れなかった。
その想いは強さだと、周りは言ってくれたけれど、香穂子は違うと思う。
これは、執着だ。
香穂子の弱さ故の。
そして、誰よりも同じ想いを抱え続けた蓮こそが。
香穂子の、その弱さを知っているはずなのだ。
「蓮から『おかえり』って言われるの……初めて、だよね?」
「そうか?……そう言えば、俺も君の『ただいま』を聞いたのは初めてかもしれないな」
香穂子の言葉にふと空に視線を巡らせて考え込んだ後、あっさりと蓮はそう言って首肯する。
そして、まだぼんやりと自分を見つめたままの香穂子に、困ったように苦笑して。
両腕を開いて、香穂子を促す。
「『おかえり』……香穂子」
彼女が、自分を『おかえり』と迎えてくれたあの日。
その言葉がどれだけ嬉しかったか、彼女にはきっと、想像もつかないことだろう。
まだ、自分が立つべき場所をしっかりと踏み固めていないのに、『結婚』という形ばかりを急いだところで、結局彼女に寂しい思いをさせてしまうことは分かっていた。……それでも。
(俺も、君の『帰る場所』になりたかった)
彼女が、あの日蓮にくれた『おかえり』に見合う幸せを。
疲れ果てた彼女が、安心して帰る事の出来る場所を。
他の誰でもない、自分こそが与えたかった。
脱げないもう片方のブーツを無理矢理に引き剥がして、香穂子は慌てて身を翻して、蓮の腕の中に飛び込む。
「……ただいま」
受け止めて、ぎゅっと強く抱き締めてくれる腕と、暖かな広い胸に、本当に『帰って来た』ことを実感して、香穂子は心の底から安堵する。暖かな涙が、じわりと浮かんで来た。
「ただいま、蓮……!」
彼の身体に一生懸命腕を回して、香穂子の精一杯で彼を抱き返すと、労るような、優しいキスが、頬に落ちてくる。
二人で新しく暮らす場所は、本当はどこでも良かった。
駅が近くて、車の出入りがしやすくて。
あまり治安が悪くない、必要最小限の買い物をするのに、困らない場所。
それだけの条件が合えば、たとえ生まれ育ったあの街のように、好きな海が見えない場所であっても。
二人が、互いに必要とされる場所で朝から晩まで働いて。
疲れ果てて……そして。
何よりも安らげる。……愛おしむ。
この腕の中に間違いなく、辿り着くことができるのなら。
何よりも、そこが自分たちの『幸福』な居場所なのだろう。
きっと、そこがどんな場所であったとしても。
互いの存在が、そこに在るのならば。
それこそが、帰り着く場所。
二人が二人で。
寄り添う人生を、幸福にに生きていくための『ホーム』。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.11.15 加筆修正:10.5】
萌え友との、誕生日プレゼント物々交換創作です
友人と二人で「新婚書くぞ新婚!」とテーマ決めて、お互いにイラストと小説で。友人からの頂き物は合同サイト「sw」に展示してあります♪ 閲覧が出来る方はほのぼの甘い二人を堪能して下さい♪
私の方は……別にこういう新婚があったっていいじゃないか!(笑)


