愛おしい存在であることには違いがないし、そうやって世話を焼くことも母親の醍醐味だと思いはするのだが、疲労感に嘘は付けない。
愛らしい笑顔一つでその疲労が吹っ飛んだりもするけれど、その相手が眠ってしまった以上、今はその疲労感を曝け出しても許されるのではないかと香穂子は思う。何と言っても、母親とは言えど、人であることには変わりないのだし。
そんな言い訳をしつつ、側にあったソファにぐったりと腰かけると、鼻先にふわりと優しい香りが漂ってきた。
「……お疲れ様」
遠慮がちに呟きながら、香穂子の鼻先に紅茶のカップを差し出してくれた人物を上目遣いで見上げ、香穂子は少しだけ苦笑しながらその湯気の上がるティーカップを受け取った。久し振りのオフで、疲れているのは自分の方であろうに、育児の一切を香穂子に任せざるを得ないせいか、どことなく香穂子に気を使いがちの蓮に、苦笑せざるを得なかった。
(出来うる限りでも、ちゃんと手伝ってくれてるからいいのになあ)
コンサートやレコーディングなどのせいで多忙な蓮に、香穂子はそれ以上を望もうとは思わない。ヴァイオリニストとして生きることが彼の仕事で、彼がやるべきことだと思うから。それでも、家庭を蔑ろにするのなら、非難もされるべきところかもしれないが、予想外に、と言ってしまっては失礼かもしれないが、蓮は彼のできる範囲で、よく香穂子を手伝ってくれていると思う。慣れないながらも、産まれたばかりの一人娘の世話をしてくれるし、可愛がってくれる。それで充分だと思うのに、それでも彼本人にしてみれば、まだまだ腑甲斐無いというところなのかもしれない。善くも悪くも、昔から自分に妥協というものを許さない人だから。
(……単に、響とゆっくり顔合わせられないのが寂しいだけなのかもしれないけどね)
蓮が煎れてくれた紅茶を一口含み、香穂子はベビーベッドですやすやと眠る存在を、妬けるくらいに愛おしげに眺めている蓮を見つめながら、そんなことを思った。
「いつも、響の面倒を君に押し付けて、すまない」
ソファに腰を下ろし、並んで紅茶を飲みながら、蓮が改めて香穂子にそう詫びた。
穏やかな春の午後。開いたカーテンから柔らかな陽射しが差し込んできて、部屋の中は暖かく、心地よい。
香穂子に似たのか、妙に行動的な二人の間に産まれた娘は、香穂子一人の時だと何をしでかすか分からなくて、なかなか気を抜けないが、今日は蓮がいる。娘の一挙一動が気になって仕方ない多忙な旦那様は、香穂子が少しの間娘の響から目を離していても、ちょっとした変化も見逃さずにすぐに報告してくれるから、香穂子は少しだけ気が抜ける。
ソファにもたれかかって、春の陽気にぼんやりとしていたから、香穂子は一瞬蓮の言い出したことが分からなかった。
改めて蓮の言葉を噛み締めて、やっぱり気にしてたんだなあと苦笑しながら、香穂子はふるふると小さく首を横に振る。
「蓮が気にしちゃ駄目だよ、そういうのは。響の面倒見るのは、お母さんの私の役目なの」
「……だが、夜も良く眠れてないんだろう?」
「うーん、響がちょっと夜泣きするからねー。でも、ここは防音が効いてるから御近所は気にしなくていいし。赤ちゃんは泣くのが仕事なんだから、それも別に」
仕事もきちんと休暇を貰っているし、世の中の働く母親に比べれば、香穂子は充分に楽をさせてもらっていると思っている。
「蓮は、しっかりと自分のヴァイオリンを、皆に聴かせてきて。感動を与えてきてくれたらいいの。そのために、蓮が帰って来るためのおうちと響を守るのが、今の私の仕事なんだから」
ね?と笑った香穂子に、蓮は困ったように笑う。納得したのかそうでないのか、俯きがちに膝の上で長く整えられた指を組んだり、離したりしている。
「……蓮?」
「香穂子」
何かを言いたげな蓮に、香穂子が思わず声をかけると、その言葉尻に被せるように、思い切ったような蓮の声が香穂子の名を呼ぶ。「……はい?」と香穂子が応じると、蓮は組んだり離したりしている自分の指先を見つめながら、躊躇いがちに唇を開く。
「その……君に、頼みたいことがあるんだが……」
「え?」
「……君が、大変なことは良く分かるし、簡単に俺が願っていいことでもないとは思うんだが……」
「……うん? ……何?」
蓮が言いたがることが、まだ香穂子にはよく分からない。困惑しながら尋ね返すと、蓮の頬に、微かな赤味がさした。
「その……響がもう少し大きくなってから……。君の負担が、少しでも軽くなってから、それからで、構わないから」
響の兄弟を作ってくれないか、と。
消え入りそうな声で、蓮は呟いた。
「……俺は、ずっと一人だったから」
多忙な家族。
偉大な人達。
それを、哀しいと思ったり、嘆いたりしたことはない。
それでも、たったひとり、あの大きな洋館に残されるたびに、こっそりと思っていたこと。
もう一人でいいから。
誰かが、側にいてくれたら。
この寂しさは、和らぐだろうにと。
ずっと、そんなふうに思っていた。
「……君の音も、誰かに必要とされる音だから」
今は、幼い響が独占出来る愛情も、いつしか全てをこの存在へ注ぎ込むことは出来なくなる。
それは、「音楽」という生きる手段を、選んでしまったが故に。
「だったら、その時に。少しでもこの子が寂しくはないように」
香穂子も自分も、寂しがらせるためにこの存在を見捨てるとは思わない。だが、音楽と言う道に生きる以上、どんなに願っても、響だけを優先出来ない瞬間はきっとある。
遠い昔、響と同じ立場にいた蓮には分かる現実。
愛されても、愛されても。
どこかが満たされない、矛盾。
(俺の両親も、こんな気持ちだったんだろうか)
愛してることには違いがないのに。
寂しがらせてしまう、その辛さ。
ゆっくりと、香穂子の腕が伸びて。
ぎゅっと、優しく蓮の身体を抱き締める。
日溜まりのような、暖かさ。
「……香穂子?」
突然の彼女の行動に戸惑う蓮に、香穂子は優しく、笑ってみせる。
「そんなの、頼まれなくたって」
沢山の家族の、賑わしくて煩わしくて、でも暖かい、居心地の良さを、香穂子は知っている。
それを知らない蓮に、いつか教えてあげたいと思っていた。
「……蓮が寂しかったのを、私は知ってる。だから、ずっと決めてたんだよ。蓮が帰るための場所は、いつだって賑やかで、暖かい場所にするんだって」
いつだって、笑い声に溢れて。
誰かの温もりに満ちている。
……寂しくはない。そんな場所。
「蓮も響も、それからこの先の未来で新しく家族になる子達も。みんなみんな、私が幸せにするんだからね!」
そう。この素晴らしい世界に。
産まれてきて、本当に良かったと。
そんなふうに笑って、幸せに生きていくために。
あとがきという名の言い訳
オフ活動の一環で「会員制配布本」というものをやっていた時に、6回以上配布を希望して下さった方のリクエストに応じて書き下ろしていた短編です。
結婚後、子どもがいる設定で書いたのはこれが初めてですね……そして多分この先はない(笑)
単純に『恋愛』シュミレーションゲームの二次創作をやっている以上、『恋愛』話を書いておきたいという渡瀬の主義?主観?なんですけどね。家族としての話を書くと、また違ったものになっちゃうと思うし。
ちなみに、渡瀬は一人っ子なので兄弟姉妹が欲しかったなーと切実に思います。大人になっての親戚づきあいは面倒が多いとは思いつつ(^^;)それでも何かあったときによりどころは多いに越したことがないと思うので。


