「はい、もしもし?」
携帯への電話だから、相手も出るのが香穂子だというのは分かっているはずだ。名乗りもせずに気楽な気持ちで応じると、回線の向こうで微かに戸惑う気配が伝わった。
「もしもし。……日野か?」
まだあまり耳慣れていない、受話器越しに聴こえる声に、香穂子は一瞬頭が真っ白になる。思わず耳元から携帯電話を離して、まじまじと見つめてしまう。
「あっ、えっ……つ、月森くん!?」
慌てて携帯電話を持ち直し、ついでに姿勢まで正して、香穂子が問いかける。その香穂子の反応を別の意味に捉えたらしい月森が、どこか不安げな声で呟いた。
「遅くにすまない。その……、もし今君の都合が悪いのなら、後日でも構わないのだが」
「う、ううん。ううん!」
ぶんぶん、と月森には見えていないのに、香穂子は懸命に首を横に振る。
付き合い始めて、ようやくお互いの携帯番号とメールアドレスとを交換したのが、留学中の月森が一時帰国した数か月前。その後、予想よりも頻繁にやり取りはしているのだが、そのほとんどが香穂子から発信するものだった。もちろん月森の都合を伺いつつであるのだが、香穂子からの電話やメールに、意外なほど月森はこまめに応じてくれる。ただ、これまでは彼からの連絡というのはあまりなかった。数度のやり取りの後、もしかしてこういうふうにやり取りをすることが苦手なのかと思い、香穂子から尋ねてみたことがあるのだが、どうやら苦手と言うよりは、これまでに自分から誰かに電話やメールを発信する機会がなくて、慣れていないらしい。
人づきあいが苦手な月森のことを香穂子も知っているから、成程と納得していたのだが、だからこそ、こうやって月森の方から連絡を取ってくるというのは、とても意外な事だったのだ。
「どうしたの? 何かあった?」
つい心配になって香穂子が尋ねてみると、月森は「ああ、いや……」と言葉を濁す。「それよりも、最近、練習の方はどうだ?」と尋ね返され、香穂子はここ最近の自分の生活にふと思いを巡らせた。
「うん、付属大学の受験に向けて、金澤先生のアドバイス受けながら頑張ってるとこ。音楽的な経歴がないから、やっぱり推薦では難しいと思うし……」
音楽を始めて間もない香穂子では、推薦してもらえるほどの実績を積み上げることが難しい。そうなれば、実技・学力共に一般の試験でパスするしか道はないのだが、それも相当な難関であることは香穂子にも分かっていた。
「ただ、受けるのがうちの付属だし、一応学内音楽コンクールに出たって結果もあるから、もし他のコンクールで入賞できたり、あとは校内での発表会とか、そういうイベントごとに協力してれば、一応の推薦状は書いてくれるっていうから、そっちでも頑張ってみようかなって思ってるの。結局人前で弾くためには練習しなきゃいけなくなるから、実技の勉強にもなるわけだしね」
いつものように、香穂子が一方的に話して、月森が時折「そうか」と相槌を打つ。
最初の頃は、香穂子があまりにも喋るものだから、月森が呆れて話せないのかと心配にもなったのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。確かに、饒舌な月森なんて全く想像がつかない。
でも、相槌を打ってくれる月森の声がどことなく穏やかで優しいから、香穂子も次第に安心して好きなように話すことが出来るようになってきた。
きっと、それもお互いの距離が近づいている証拠なんだと、香穂子は勝手に思っている。
離れていても、違う道を歩いていても、こんなふうに関係を育てていくことは、出来るのだ。
「あ、それでね。そのうち月森くんがまた一時帰国することになったら、是非会ってほしい子がいるんだよ」
話の流れでふと思いついて、香穂子が少し声のトーンを上げて言った。「会って欲しい子?」と怪訝そうな月森の声が繰り返す。
「そう。……ちょっと前にね、偶然知り合った子なんだけど、何とその子、吉羅理事長の従兄弟だったんだって。今年になって、うちの音楽科に入学してきたの!」
数か月前、練習室で練習をしているときに、いつの間にか室内に入り込んで香穂子の音を聴いていた少年。散々香穂子の音をこき下ろして、その後偶然近くの公園で出会った時も、尊大な態度を変えることはなかったが、確かにそれに見合うほどの実力の持ち主ではあった。
ただ、自分と同じくらいか、もしくは年上かと思っていたその少年が、何と自分よりも2つも年下の、中学生だとは思わなかった。今年に入って、入学式の手伝いをしている際に、新入生用の花を真新しい制服の胸に付けた一際目立つその相貌を見つけ出し、香穂子は思わずその少年を指差して絶叫し、周囲の視線をこれでもかと浴びたのだ。
「衛藤くんっていってね。さすが理事長の従兄弟というか何というか……。すごくヴァイオリン、上手だよ。音も、堂々としてて」
「……衛藤くん……?」
それまで、静かに香穂子の話を聞いていた月森の声が、ふと変化した。
「うん、衛藤桐也くんって言う……。もしかして、知り合いだったとか?」
「いや……」
突然の月森の変化に驚いて、香穂子が恐る恐る尋ねると、言葉少なに月森は否定し、それからしばらくの沈黙の後、ぽつりと呟いた。
「……君の話を聞いていて、男性だとは思っていなかったものだから」
「あ」
そう言えば、自分の発言を思い返してみれば、はっきりと性別を判断できる要素はなかったのだと気付く。香穂子自身は衛藤の姿を思い浮かべて話すわけだから、何気なかったが。
「えーっと。……月森くん?」
だが、香穂子が紹介したい相手が男性だろうが女性だろうが、本当は月森にはあまり関係がないはずだ。それなのに、相手が男性だと分かった途端、声の雰囲気が変わった訳は。
「まさか、妬いてる? ……なーんちゃって……」
香穂子が明るく呟き、そして次の瞬間にはもう不安になってしまって、冗談めかしたように呟くと、また月森がしばらくの間息を呑むように沈黙する。
ややして、少しだけ拗ねたような声が、香穂子の耳元に届いた。
「……悪いか?」
「……嘘」
呆然と香穂子が呟く。
驚愕が真っ先に来て。それから別の感情が、じわじわと胸に迫ってくる。
「君らしいと言えばそれまでだが、あっけらかんと俺ではない男性の話をされて、あまりいい気分はしない。しかも、俺に紹介したいなんて」
「あ、あの。……うん、ごめん。でも」
なんだろう、これ。
いわゆる、真夜中の手紙ならぬ、真夜中の電話マジックなんだろうか。
「まさか、妬いてくれるなんて思わなかった。……どうしよう、何か、嬉しい、かも」
多分、今鏡を見たら、真っ赤になっているんじゃないだろうかと思う。
耳や頬が、尋常でなく熱かった。
「……だから、君はいつもいつも、俺を何だと思っているんだ」
どこか呆れたような溜息と共に、月森がいつか聞いたことのある言葉を繰り返す。
「別に、普通だ。……好きな女性に俺以外の男性の話をされれば、やきもちくらい、焼く」
……瞬殺。
そんな言葉が脳裏に浮かび、香穂子は思わず傍のベッドにごろごろと転がった。
「……わー、駄目だー。ちょっと、今の破壊力凄かった……」
恥ずかしい、と香穂子がベッドの上で両足を縮めて、丸くなる。また受話器の向こうで、月森が困惑する気配。
「あの……あのね。月森くん」
負けっぱなしは悔しいし。
誤解されたりしたくはないし。
何よりも、まっすぐな言葉が嬉しくて。
……それを、自分も返したいと思うから。
「あのね、衛藤くんが月森くんに会いたいって言ってたのはね。……私の憧れの音が、……目標にしてる音が、月森くんの音だからなんだよ」
あんなに綺麗な音を持つ人は他にはいないと香穂子が絶賛するものだから、一度勝負してみたいと衛藤が言ったのだ。
「……それを聞いたら、増々複雑な気持ちになるな」
香穂子の言葉に、幾分機嫌を直したように。
低く、優しい声で、月森が呟いた。
「……ならば、その「衛藤くん」とやらには、俺は絶対負けられないだろうから」
ヴァイオリンの演奏でも。
そして、いつまでも変わらずに、月森が香穂子の一番の憧れの音であるためにも。
「あ、ねえねえ、月森くん。結局月森くんが電話をかけてきた用事ってなんだったの? 結構長く話してたけど、時間は大丈夫なの?」
時計を眺めればもうすぐ電話がかかってきてから1時間が経過しようとしている。
明日は休日だし、夜更かしがそんなに不得意ではない香穂子は平気なのだが、時差がよく分からないから月森の今現在置かれている状況が分からなくて、ふと不安になる。
そんな香穂子の不安を余所に、事もなげに月森は言ってのける。
「あ、いや。……実は今、所用で日本に戻ってきているんだ。明日は休日だから、もし君の都合が良ければ、逢えないかと思って……」
ベッドに転がったまま、香穂子は天井を見据えて動きを止める。
一瞬の沈黙の後、思わず絶叫した。
「それ、真っ先に言ってよーっ!!」
とりあえず、衛藤との勝負はお預けにして、また日を改めて。
明日は久しぶりの再会を、二人きりで思い切り満喫しようと約束して。
不器用な初心者マークカップルが、少しだけいつもより素直に、正直に本音を曝け出せる真夜中の電話は。
幸せな気分のままに、そっと終わりを告げるのだ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:11.5.5】
「Afterwards」を踏まえた、同じく漫画版補完創作。
基本、自分が電話が嫌いであまり長々と電話をすることがないので、なかなか書いていて新鮮なお話でした。この一連のシリーズ(?)は、それなりに皆さんに好意的に読んでいただけていた気がします。


