それは何という名前になるだろう。
この、苦くて、痛くて。
くすぐったくて。
どうしようもなく、持て余す感情。
(……今日は来ない。……か)
右腕の時計の文字盤に視線を落とし、もうすぐ最終下校の鐘がなる時間であることを確認すると、月森は肩に乗せたヴァイオリンを下ろし、小さな溜息を付いた。
ふと自分の心の中に浮かんだ言葉に、一つ瞬きをして軽く首を横に振る。
……彼女がここに来ないから、だから何だというのだろう。そもそも、どこからともなく現れて、勝手に自分のヴァイオリンを観賞していく彼女の存在は、あまり歓迎していなかったはずなのに。
(……慣れたのだろうか)
ヴァイオリンケースに愛器を片付けながら、そんなことを思う。
いつの間にかそんなふうに彼女が側にいることが、当たり前のことになってしまうくらい。……日常の風景になってしまうくらい。
自分は、彼女という存在に、慣れてしまっているのだろうか。
……彼女が一日視界に入らないと。
どこか、物足りなさを。
寂しさを覚える、ということは。
彼女の存在に、慣れたと言えばいいのか。それとも、何か別の理由があるのか。
(少なくとも、今までに感じたことのない気持ちだな……)
もやもやと、燻っていて。
はっきりとした形が見えなくて。
もどかしくて、苛立たしくて。
どこか苦くて、痛い。
……ただ。
これは、それだけの言葉で完結するような単純明解な想いじゃない。
それだけは、何となく分かる。
練習室を片付けて、鍵を職員室に戻すため、月森は荷物を片手に渡り廊下を歩く。そこで何気なく視線を外界に向け、息を呑んだ。
遠目に目立つ鮮烈な赤。肩に跳ねる癖髪はここ最近ひどく馴染んだもの。その持ち主の華奢な身体が中庭の大きな木の根元に座り込んでいた。
……多分、それだけなら月森の感情を揺さぶることはない。……ほんの少し、冷静を保つはずの感情を、そよ風で揺らすのだとしても。
いつもの月森の仕草をかなぐり捨てて、室内靴のまま、中庭に駆け出すような真似をしたのは。
何よりも大切なヴァイオリンを片手に下げていることも一瞬忘れて、走り出し、彼女に駆け寄ったのは。
「……月森くん」
自分の視界を突然陰らせた人影に、驚いたように彼女……日野香穂子が顔を上げる。反射的に掌で覆い隠そうとした膝頭を、咄嗟に月森がその場に片膝をついて、香穂子の手を掴んでその動きを止め、覗き込む。
擦りむいて、滲む血の色。
「あ、あの、ちょっと転んじゃって」
慌てたように笑って、香穂子は言う。だが、月森はそれが半分くらいは嘘であることを知っている。……正確には、言葉が足りていない。
座り込んだ香穂子の額にはうっすらと汗がにじんでいて、癖の強い髪も乱れている。相当長い間走り回っていたのでなければ、こんな状態にはならない。
「……また、嫌がらせか?」
「そんなんじゃないよ。……そんなんじゃなくて」
私が、まだ駄目だから。
そう呟いて、香穂子は俯き、哀しげに微笑んだ。
そんな、彼女の。
月森の知らない、見たことのない表情が。
月森の胸を痛ませて、締め付けて。
そして、沸き上がる。
名前を知らない、これまで抱いたことのない感情。
「……とにかく、ここでこうしていても仕方がない。保健室へ行こう。帰りも、送るから……」
「えっ……!」
月森の申し出に、戸惑ったように香穂子が声を上げる。そんな彼女に先んじて立ち上がり、彼女の手を掴んでいた、ヴァイオリンを持っていない方の片手で、月森は香穂子の二の腕を掴み直し、彼女を立ち上がらせた。
「月森くん。私なら、本当に大丈夫だから……そんなに、月森くんに迷惑かけられないし」
「迷惑じゃない」
困ったような香穂子の言葉を、月森は自分でも思いがけない程にきっぱりと否定した。
「……迷惑なんかじゃ、ないから」
これは、偽らざる本心。
いつしか、ヴァイオリンを弾く自分の側に、彼女の存在があることが、当たり前の光景になって。
彼女に振り回される自分。……彼女の一挙一動に、容赦なく感情を揺り動かされる自分。
……それを、悪くないと思う自分自身がいる。
彼女を想うたび。
月森の中に生まれる、沢山の感情。
それは、時に痛く、苦く。
胸を締め付けて。
だが、いつしか。
……そんなマイナスの感情でさえ。
「……本当に、ごめんね。月森くん」
結局、校門が閉まるぎりぎりまで校舎内に残り、香穂子の膝の治療をした月森は、大丈夫だと言う香穂子の意見を突っぱねて、彼女を彼女の家まで送っていく。特に話す言葉もなく、きっと膝が痛いであろう香穂子の歩調を気づかいながら、ただ、ゆっくりと家路を辿る。
「俺に悪いと思うのならば、もう少し自分を大事にしたらどうだ? 身体のどこの部分の怪我が、どう演奏に影響するか分からないのに」
「う、うん……」
肩を落としてしょげる香穂子は、上目遣いに少し前を歩く月森を見つめる。
……そして、どくんと。
高鳴る鼓動。
ちらりと、視線だけを流して香穂子を振り返った月森の目が、柔らかく微笑んでいて。
優しい。
「……日野?」
怪訝そうな月森が、足を止めて香穂子を振り返る。そうして振り返った月森の姿が、穏やかな夕陽の色を背景にして、ほんの少しだけ今まで見ていたよりも遠くて。
香穂子は自分がいつの間にか足を止めていたことに気が付いた。
「あっと、ごめ……」
「痛むのか?」
香穂子の言葉を遮って尋ねる月森が、ふと数歩の距離を戻ってくる。
香穂子の前に立ち、身を屈めるようにして香穂子の顔を覗き込む。
当たり前のように、香穂子の柔らかな曲線を描く頬に指が伸ばされて。
触れる直前、月森がたった今、目が覚めたように一つ大きな瞬きをして、その指先をぎゅっと握り込んだ。
「っ……、す、すまない……」
「う、ううん……」
ふるふる、と首を横に振って、頬を赤く染めた香穂子が俯いた。
その後も、ゆっくりゆっくり。
香穂子の歩調に合わせ、ほんの数歩の距離を置いて。
二人は茜色の家路を辿る。
この感情に名前をつけるとしたら。
それは何という名前になるだろう。
この、苦くて、痛くて。
時折、その動きを持て余して。
そのマイナスの感情を上回る程に。
むずがゆい心地よさと。
暖かさと、安らぎと。
……些細な瞬間に触れたくなる、そんな愛おしさの。……その名前。
茜色の夕陽を仰ぎ、月森はもう、本当は気付いているその感情の名を、心の中で呟いてみる。
時折、痛く苦く、胸を締め付けて。
それ以上に、柔らかく暖かい。
その感情の名前は、『恋』。
あとがきという名の言い訳
オフ活動の一環で「会員制配布本」というものをやっていた時に、6回以上配布を希望して下さった方のリクエストに応じて書き下ろしていた短編です。
リクエストに合わせて書いたものが多いので、同じようなことを書いていてもちょっとだけ自分らしくない感じにしてたりとかしますねー。
月日のこの辺のもだもだは書いていて結構楽しい時期だったりするんですよね。オマエら以外皆知ってんよ!!って感じですね(笑)


