プレゼント

月森×日野

「もし君の都合が良ければ、夏休みのうちに、一度うちに夕飯を食べに来ないか」

 月森からそんな申し出があったのは、夏休みに入ってすぐの七月下旬のことだった。
夏休みとはいっても七月一杯は課外授業があるため、その日は香穂子も月森も学校に登校しており、お互いの課外授業が終わった後、エアコンを効かせた練習室でいつものようにヴァイオリンの練習に明け暮れていた。
 予想外の月森の申し出に、香穂子は一瞬反応が出来なかった。楽譜を睨み、自分の苦手箇所を懸命に確認していた所為もある。「うん」と生返事で応対した香穂子を月森がじっと見つめていると、目の前でじわじわと香穂子の表情が変化していく。
「……月森くん?」
「何だ?」
 香穂子の反応の一部始終を見つめていた月森は、浮かんでくる笑いを押し殺しながら、努めて冷静に答える。誤魔化すように視線を伏せて、譜面台に置いてある楽譜の音符を指でなぞる。
「今、何かすごいこと言わなかった?」
「すごいことを言ったつもりはないが、とりあえず君の了解を得たのだとは理解している」
「え、やだ!ちょっと待って、待って!」
 慌てた様子で香穂子が自分の楽譜から顔を上げる。釣られるように月森も顔を上げて、香穂子を見た。
「今、夕飯食べに来いって言った?」
「ああ。君が動揺もせずにあっさりと応じてくれたのは、いささか驚いたが」
 えーっと困ったように香穂子が声を上げ、恐る恐る上目使いに月森を見つめる。
「だって、夕飯ってことはおうちに月森くんだけじゃない……んだよね?」
「両親が久しぶりに海外から戻ってきているんだ。君が何度か遊びに来たのを祖父母から聞いたらしくて、是非一度君を連れて来いと」
 うわああっ、と香穂子が頭を抱え、その場に座り込んでしまう。
 楽譜に夢中になっている香穂子にこの申し出をすることによる彼女の反応はある程度予測していたものの、そこまで困られてはと逆に申し訳なくなり、月森はそっと香穂子の肩に手を掛けた。
「香穂子。……その、これは母達の勝手な誘いではあるし、さっきは君があまりよく俺の言葉を聞いていないと分かってて言ったことではあるから、そんなに問題があるのなら、無理にとは……」
「……う、ううん。大丈夫!」
 気遣わしげな月森の言葉に、がばっと顔を上げて、香穂子はふるふると首を横に振る。
「あの……月森くんのご両親に気に入ってもらえるほど、気の利いたことはできないかもしれないんだけど。でもこれって、避けては通れない道っていうか、いつかは越えなきゃいけない壁っていうか。私が月森くんのことを好きなうちには、絶対に訪れる試練だと思うの!」
 妙に力強く握り拳を固めて言い切った香穂子は、神妙な面持ちで月森に向き直る。
「……ということで、夕飯にお邪魔します!」
「あ……ああ」
 香穂子の勢いに押された月森が頷く。
 服とかお土産とかどうしようかなと首を傾げて考え込む香穂子に、月森は小さく瞬きをして。
 そして、ふと微笑む。
 何気ない香穂子の言葉の中に、これ以上になく月森を幸せにする言葉が含まれていたことに、香穂子は気付いていない。
 そんなふうに、頑なに閉ざしていた月森の心を、いとも簡単に開いてしまった彼女なのだから。
(本当は、そのままの飾らない君で、大丈夫だと思うのだけれど)
 それを今の香穂子に言ってみたとしても、無駄になるだけなんだろうなと、月森は心の中で苦笑した。


「ううう、緊張する~~~」
 パーティではないのだから、普段着で構わないと月森は言ってくれたが、それでもいつもの普段着よりは少しだけ気を使ったお気に入りのワンピースに身を包み、お土産のフルーツゼリーが入った紙袋を小脇に抱えた香穂子は、迎えに来てくれた月森の前で、祈るように両手の指を組み合わせて、ぎゅっと目をつぶる。
「一度、会ったことはあるだろう。そもそも、君は祖父母達とは仲良く話しているし」
 月森の両親に会ったのは、学内音楽コンクールの第二セレクションの時だっただろうか。月森によく似た風貌の上品そうな両親で、そしてとても優しく穏やかそうな人達だったことを香穂子も覚えている。
 その印象が今も変わっていないのは、月森の祖父母のせいでもある。月森家に遊びに行ってヴァイオリンの練習を見てもらっているうちに、何度か顔を合わせたことがあるのだが、この祖父母もどこかおっとりとした、上品な優しい人達だった。香穂子が元々おばあちゃんっ子だったこともあってか、実の孫よりも余程甘え上手な香穂子を、月森の祖父母も気に入ってくれて、何かと構ってくれるのだ。
「そ、それはそうなんだけど。友達のご両親と彼のご両親ってまたイメージ変わるし、お祖父さんとお祖母さんは、むしろご近所の子供を可愛がってる感じっていうか」
 むう、と唇を尖らせる香穂子に、月森が、「ああ」と溜息をつくように笑う。
 香穂子が家に来るたびに「香穂子ちゃん、お菓子はいかが?」「お茶をもう一杯どう?」と楽しげに構いに来る祖父母のことを思い出したのだ。
「……君の美徳だな、それは」
「うーん、……それってつまり、警戒心が足りないとかって、そういう意味?」
 月森の言葉に、香穂子が不満げに月森を睨み付ける。月森は小さく首を横に振った。
「君がそういう人間でいてくれなかったら、今の俺たちは、ない」
 頑なに周りのものを遠ざけようとする、そんな臆病な月森の内側に入り込もうとする。
 傷つくのを怖がらず、懸命にその奥にあるものを見極めようとする、香穂子の存在がなかったら。
「だから、君はそれでいいんだ」
 微笑んで告げた月森に、香穂子は一瞬虚を突かれたように目を丸くし。
 頬を染めて俯き、小さく「……ありがとう」と呟いた。


「いらっしゃい。今日は無理を言ってしまって、ごめんなさいね」
 月森に案内されて、慣れ親しんでいるはずの月森家の玄関にたどり着くと、月森の母・美沙が笑顔で香穂子を出迎えてくれた。
「お、お招きくださって、ありがとうございます。日野香穂子といいます」
 懸命に言葉を選び、香穂子が自己紹介をして丁寧に頭を下げる。ふと自分が持ってきた手荷物に気がついて、おずおずとそれを差し出した。
「あの。よろしかったら。……月森くんがあまり甘いものを食べないみたいなので、これ、フルーツゼリーなんですけど……」
 説明した後に、余計なひと言を付け加えてしまったかと慌てて顔を上げたが、美沙はきょとんとして香穂子と紙袋とを見比べて、「気を遣わなくてもよかったのに」と満面の笑みでそれを受け取ってくれた。
「しかも、蓮の嗜好にまで気を配ってもらってしまって、ごめんなさいね。この子、本当に自分の味覚に合わないものは、全く口にしないんだから」
「……お母さん」
 窘めるように月森が呼ぶと、あら、ごめんなさい、と悪戯を見つかった子供みたいに美沙が笑う。
「今、夕食の準備をしているから、しばらくリビングの方でゆっくりしていてね。蓮、お茶でも入れてあげなさい」
「はい」
 月森が頷くと、美沙は香穂子から受け取った紙袋を抱え、キッチンの方へと鼻歌交じりに戻っていく。しばらく呆然と見送っていた香穂子が、ふと気づいて月森を振り仰いだ。
「……って、え!? もしかして、お母さんが夕食作ってくださってるの?」
「ああ。どうしても君に手料理を振る舞いたいんだそうだ」
「な、何か贅沢だね。いいのかな……?」
 普通の母親らしく、自分のために手作りのお弁当や手料理を作ってくれるより、ピアニストとして見知らぬ誰かのために指を大切にしていてくれた方が嬉しいと、いつか月森が言っていたことを香穂子は思い出す。戸惑いながら月森を見上げると、月森は少しだけ困ったように苦笑し、どこか諦めたように溜息をついた。
「……母は、一度言い出したら聞かないんだ」

 それは、きっと。
 月森にとっては何気ない一言だったのだろうけれど。

「……そっか……」
 香穂子は、ふと安堵したようにぽつりと呟く。
「そっかあ……」
 嬉しそうに頬を染めて微笑んだ香穂子に、月森が不思議そうな表情をする。

 今まで、偉大な家族の功績に知らず押しつぶされそうになる月森ばかりを見ていた。
 だけど、先ほどの何気ない一言で。
 あの、呆れたように笑って告げた月森の一言で。
 初めて香穂子は、月森の両親が月森にとって、紛うことなき『家族』であることを実感した。
 そのことを知ることが出来ただけで、今日ここを訪れた意味は、充分にあったのだと香穂子には思えたのだ。



「ごちそうさま。すっごいおいしかった~!」
 おいしすぎて食べ過ぎたーと、香穂子は自分のおなかを撫でて、はあ、と溜息をつく。そんな香穂子を、月森はどこか微笑ましそうに目を細めて見つめた。
 食事の最初の方こそ香穂子には緊張が見られたが、次第にいつもの彼女らしく屈託なく自分の家族と会話を楽しんでいてくれた。途中、「普段学校で、蓮はどうなの?」と母親に尋ねられ、「えっと、……とっても頑固で、厳しいです!」と満面の笑みで答えられ、月森の方がどうしてくれようかと思ったが。
「月森くん……まだ怒ってる?」
 先ほどから黙ったままの月森に、香穂子がおずおずと尋ねる。
 怒ってはいないが、その後の香穂子の「あ、でも私にはすっごく優しいんです!」というフォローになっていないフォローのせいで、後で香穂子の帰宅後、どんなふうに母親にからかわれるのかを想像すると、頭が痛いのは事実だが。
「……まあ、君に当たり障りなく上手く誤魔化してくれというのも無茶な話なのだろうが……」
「……月森くん、自分のことを棚に上げて、私のことを馬鹿にしてるでしょ」
 嘘が上手くないのは月森も香穂子も同様だ。
 素直にすべてをオープンにしてしまう香穂子と、どうせすぐに分かってしまう嘘だから、初めから何も口にしない月森という違いはあるけれど。
「ま、いいや。それよりも、楽譜楽譜~っと」
 後でお茶とデザートを持って行くから、部屋でゆっくりしていなさいと言われ、月森と香穂子は月森の自室へと向かう。ついでに以前から貸してもらう約束をしていた楽譜を借りていくことにした。
 跳ねるように香穂子が階段を上り、その数歩後を月森が追いかける。
 月森の部屋のドアを開け、勝手知ったる部屋の電灯をつけようと香穂子が手を伸ばしたところで、ふと思い出したように月森がそれを制した。
「ああ、香穂子。明かりをつけるのは少し待ってくれないか」
「え?」
 驚いたように香穂子が振り返ると、部屋のドアを後ろ手に閉めた月森が、そっと香穂子の背中を掌で押した。
「せっかくの機会だから、君に見せたいものがあるんだ」
 そう言った月森に導かれ、たどり着いたのは月森の部屋のベランダだった。戸惑って月森を振り仰ぐ香穂子に小さく頷き、月森はベランダの外に出るように香穂子を促す。
 訳が分からないまま、香穂子はガラス張りのドアを開き、そして広いベランダへと一歩を踏み出す。
「……うわ」
 思わず、感嘆の声が漏れた。
 月森家の敷地は広い。それはよく分かっていたつもりだったが、見慣れた昼間の明るい景色とは一味違う、夜の月森家から見上げる空。
 大きく切り取られた空に散らばる、満天の星。それは周りをたくさんの住宅に囲まれ、ほんの狭い部分の空の一部しか切り取ることのできない香穂子の自室からでは、味わえない風景だ。
 確かに、月森も香穂子も、同じ空を見ているはずなのに、視点を変えるだけで星空はこんなにも風貌を変える。
「……月森くんが、星空を見るのが好きって言うの……なんか、初めて理由が分かった気がする」
 ベランダの柵に両手を乗せ、星空を仰ぎ見る香穂子がぽつりと呟く。少し後ろで、斜めに空を見上げる月森が、ふと笑った。
「ヴァイオリンを弾いていたり、譜読みをしていたり。そうして息詰まった時に、空を見上げたくなる。……開放された景色に、少しだけ癒された気分になるんだ」
 振り返った香穂子に、月森はそっと視線を伏せる。

「……いつか、俺の好きなこの空を、君に見せることが出来たら、と思っていた」

 優しい、優しい月森の言葉。
 決して、確かな愛の言葉ではなく。
 感動的な詩の一説などではないけれど。

 それは、確かに香穂子の心の琴線を揺らす。
 心を震わす、暖かな言葉。

「……今日誘ってくれた月森くんのお母さんに、感謝しなくちゃ」
 そうしなければ、月森の心を癒す風景を。
 香穂子はまだ、知ることが出来なかったのだから。


 夏の夜を吹き抜ける風は、湿気を孕んで少しだけ身に纏わりつく。
 でも向かい合って握り合った両手にじわりと浮かんだお互いの汗が、少しだけひんやりとして心地いい。
 こつんと合わせた額も、同じような心地よさを抱かせた。

 都会の濁った空気の下で、ここから見える星の数は、実際に夜空に散らばっている数と比較して、決して多くはないのだろう。

 それでも、そこに。知らない場所に今も生まれて、そして死んでいく星があるのなら。
 見えなくても、ただ目を閉じて。
 流れゆく星たちに、祈る。

 こんなふうに、ささやかな何気ない幸せが。
 これからも繰り返し、二人の頭上に降り注ぎますようにと。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:11.1.10】

相互リンク記念にイラストをいただきましたので、お礼に創作を付けさせていただきました。(現在、サイトは閉鎖されているようです)
実は、星空デートも流れ星鑑賞も一度書いたことがあるネタだったので(笑)イラストに合わせたシチュエーションへ持って行くためにこう……長い前振りを(笑)
タイトルは微妙に内容に合っていないような気もするかもしれませんが、ちょっと深読みしてやってください(笑)

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