さらさらの砂地を踏み締める音が、互い違いに響いている。
その他には、寄せて返す潮騒の音。
静かだな、と頭の中で考えて、香穂子はちらりと視線を上げ、数歩先を行くすらりと均整の取れた後ろ姿を見つめる。柔らかな砂地に靴を取られて上手く歩けない香穂子を尻目に、バランスを崩さない姿勢は、真直ぐに前を見ている。
足下を確認しなければ上手く歩けない自分と、迷わない彼との、正しい距離。その現実は少し悔しくて、寂しい気もするのだけれど、どれだけ距離が離れても、彼が自分を見捨てることだけはないと知っているから、香穂子は焦らなくてもいい。
自分に似合う距離で、一歩ずつ確実に。どうしても気がはやる時はあるけれど、それが一番自分達の関係を揺るがさないものなのだと、もう香穂子は知っていた。
足を引っ張る、と言う人もいる。香穂子の存在が、彼の歩みを止めると。それが後ろめたいと思うこともあったけれど、その足留めが必要なのだと彼は言う。
知らないことを知る時間は、今の自分に必要なんだと。
その是非は香穂子には分からないけれど、そう香穂子に告げる彼には、嘘なんて付けないことが香穂子には分かっているから。
彼にとっての香穂子の存在がマイナスではないと、他でもない彼が言ってくれるのならば、もうそれでいいんだと香穂子は思うのだ。
自分の中のあれやこれやに思考を巡らせながら、足下を見つめ一歩一歩砂を踏みしめていると、香穂子の狭い視界に上等なスニーカーの爪先が入って来る。それをなぞるように香穂子が視線を上げると、その爪先の持ち主が掌を差し出し、柔らかく微笑して香穂子を見下ろしていた。
「……大丈夫か?」
端的な言葉も、低く穏やかな声音で伝えられれば、この上なく優しい。
うん、と頷いて、香穂子は差し出された月森の掌の上に、そっと指先を委ねてみた。
シーズンであれば賑わうはずの波打ち際も、もう冬が近付いている今では人影もなかった。自分達は、いつだってこういう時期にここを訪れるんだと気付くと、何だか香穂子は可笑しくなってしまった。
四季折々、本当にこの場所に相応しい、賑わしい風景があるはずなのに、香穂子に焼き付く記憶は、いつだってこんなふうな閑散とした景色。
家族や友達と、そんな賑やかな季節を堪能したこともあるはずなのに、今この場所を思い返す時に真っ先に思い浮かぶのは、いつだってこの穏やかな静寂と、人一人いない、寂然とした海の色。
そして、自分の掌に残る、ひやりとした人の温度だった。
「寒くはないだろうか」
さっきから、香穂子を気遣う言葉ばかりを口にする月森に、また香穂子は可笑しくなる。
気遣うくらいなら、ここを選ばなければいいのに、結局彼は、この場の静寂が好ましいのだろう。だが、それが香穂子にも通用する嗜好だとは思っていないのだ。だからこそ、不必要なくらいに香穂子を気遣う。
いらないのにな、と香穂子は思う。
多分、月森が思う以上に、香穂子の感覚は月森に近い。……近い人間だからこそ、この傍目には取っ付きにくい印象しかない気難しげな青年に、香穂子は惹かれたのだ。
「大丈夫だよ。こういう雰囲気、私好きだし」
にっこり笑うと、納得したのかそうではないのか、少しだけ困ったように笑い返して、月森はただ香穂子の掌を強く握る。それが香穂子にとっての『幸せ』であることを、月森はなかなか理解しない。
ふと香穂子は歩みを止める。頓着なくその場にしゃがみ込むと、香穂子に引っ張られる形で、必然的に月森も足を止めることになる。困惑した表情で月森は香穂子を振り返った。
「……どうした?」
尋ねると、しゃがんだ姿勢のまま、視線だけを上向けて香穂子はぽつりと呟いた。
「貝だよ」
一つ、瞬き。
咄嗟に香穂子の言葉を正しく変換出来なかった月森は、香穂子がしゃがんだ位置、その中央付近に視線をやって、ようやく現状を理解する。
「貝か」
繰り返して。……ああ、どこかで告げた言葉だと思い出して。それもまた、他でもない香穂子と交わした会話の繰返しなのだと気付く。
「今度はちゃんと学習したから」
どこか誇らしげに言って、香穂子は月森の手を離し、自分のバッグの中からハンカチを取り出す。小さな桜色の貝殻にそっと被せるようにし、摘んで持ち上げる。掌の上にハンカチごと返して、貝を月森に示した。
「文句ないよね?」
香穂子の言葉に、月森は苦笑して頷いた。迂闊に触れるなと春の彼女を制したのは自分で。それをきちんと覚えていて、律儀に言い付けを守るのが彼女で。
繰り返しているけれど、変わっているんだなと、そんなふうに思う。
踏み締める砂の音も。
寄せる潮騒も。
自分達以外に人の気配がない、穏やかな静寂も。
あの日と比べてみて、列挙できるほどの違いなんてないのに。
確かに、あの日よりも時は流れて。
自分も、彼女も変わっているのだと気付く。
それがどんなに、短く、ささやかな時間なのだとしても。
確実に積み重ねているのだと知る。
あの時の二人の気持ちは、もしかしたら、もう既に繋がりかけていた気持ちだったのかもしれないけれど、お互いにまだそれを知らなくて。遠く、離れたままだった。
今はお互いに、少しだけ分かる。
あの時月森が、香穂子の指を気遣ってくれた時の気持ちも。
そして、香穂子が何気なく貝に触れようとした、その気持ちも。
「……記念?」
香穂子と同じように、その場に屈んで、彼女の顔を覗き込むようにして、月森が尋ねる。
丁寧にハンカチを畳んで、バッグの中にそれをしまった香穂子が、一瞬きょとんとして。
それから、嬉しそうに頬を染めて笑った。
あの頃の自分は、想い出を作ることにも、それを形に残すことにも興味がなくて。ヴァイオリニストとしての自分の指のことを気にせずに、簡単に肌に傷を付けそうな貝殻に触れようとした香穂子の行動の意味が、理解出来なかった。
だが香穂子と並んで時を過ごし、彼女と同じ風景に触れて来た今だから、分かることがある。
記憶の中に焼き付けた物、どんなに願おうが、祈ろうが、いつかは薄れてしまうそんな不確かなものを。
ビデオを何度も巻き戻して、繰り返して観賞することで、その瞬間を何度も疑似体験するみたいに。
形あるものを手にすること、そして『それ』に意味を与えることで。
不必要に思えるものが、ひどく大事な宝物になる。記憶を呼び覚ますスイッチになる。
あの時の香穂子が、そんな存在を必要として、小さな貝殻に手を伸ばしたと言うのなら。
あのささやかで、それでいて月森にとってとても優しかった一時は。
彼女にとっても、その記憶の繰返しを望むほどの快い一時だったのだ。
月森は、香穂子が貝殻を抱えていた手の甲に、そっと触れた。香穂子が、誘われるように顔を上げる。
「ちゃんと、焼き付くといいな」
月森の告げた言葉の意味が、彼女にうまく伝わったかは分からないけれど、ふわりと笑った香穂子が、当たり前のように目を閉じるから。
月森も、当たり前のように、頬を寄せ、その唇に優しく口付ける。
香穂子が記念に収めたあの小さな貝殻に。
この口付けの狭間の吐息も。
そして、お互いがお互いへ抱く、愛おしさも、全て焼き付いて。
目にするたび、繰り返し呼び起こされればいいと。
そう、願いながら。
あとがきという名の言い訳
以前、オフ活動の一環でやっていた、会員制配布本に登録いただいていた方への進呈物です。6回配布本を受け取っていただくと、リクエストに沿った創作をプレゼントしていました。
こちらは甘めの月日話、というリクエストをいただいておりました。分かる人には分かるでしょうけど、コレはアレですよ(笑)
以前「るろ剣」の創作をやってた頃、同じ曲がモチーフのものを書きましたが、こちらの方がより楽曲に沿っている気がします。


