玄関先から家の中に向かって、香穂子はいつも通りの大きな声で、出がけの挨拶を告げる。
学校指定の革靴の爪先を、玄関のタイルで二回トントンと叩く。いつも通りの無意識の儀式だけれど、心無しか少しだけ浮かれたようなリズムになっているのは、おそらく今日が香穂子の17回目の誕生日だからだ。
香穂子が産まれた日であろうとも、世界にはなんの変動もない。
いつも通りに地球は巡り、人々は日常を営む。
それでも、一つ年を取った日の朝に踏み出す一歩は、ちょっとだけ特別なもののように香穂子だけには思えるのだ。
門扉の先、数段の短い階段を跳ねるように降りて、最下段の地面に両足で着地。
無意味にはしゃぎ過ぎかな?と自嘲して苦笑しながらふと脇に視線を向けると、そこに立っていた人物と目が合った。
片方の肩に、重そうなチェロのケースを。
もう片方の肩に、諸々の生活必需品を詰め込んだディパックを引っ掛けた志水が、ディパック側の片手に文庫本を開きつつ、香穂子の一挙一動を眺めていた。
「……お、おはよう。志水くん……」
「おはようございます、香穂先輩」
うっすらと頬を桜色に染めた香穂子が、慌てて挨拶をすると、ふわりと柔らかな笑顔でそう志水が応じ、楽しそうですね、と付け加えた。
(……穴があったら入りたいって、このことだよね……)
熱い頬を片手で押さえ、香穂子が心の中で溜息を付く。だが、志水の方は、妙に浮き足立った香穂子の様子にも別に頓着はしていないようだった。
「あ、えっと……、が、学校行こうか」
「はい」
誤魔化すように香穂子が学校の方角を指差して伺うと、志水もあっさりと頷いた。並んでゆっくりと歩き出しながら、ふと香穂子は自分の腕時計の文字盤に目を止める。
いつも学校に向かう時間より十数分早い。
何となく落ち着かなくて、少し早く家の外に出て、迎えに来る志水を待っていようと思っていたのだが、志水の方もいつもより随分早い時間に迎えに来て待っていてくれたのだと、その時になって香穂子はようやく気付いた。
「……香穂先輩」
首を傾げる香穂子に、しばらく黙ったまま歩いていた志水が呼びかけた。少しだけ高い目線の志水の顔を見上げて、「ん?」と首を傾げて応じると、志水は柔らかな笑顔で香穂子に倣うように小さく首を傾げた。
「まだ、学校に行くのには早い時間、ですよね。……良ければ、少し寄り道をしませんか?」
「寄り道? ……朝から?」
「はい」
頷いて、志水は香穂子の返事を待たず、香穂子の片手を取ってどんどん先へと進む。半ば引っ立てられるようにしながら、香穂子が必死でその後を追った。
志水に導かれて辿り着いたのは、近所の児童公園だった。さすがにこんなに朝早くから遊んでいる児童はいなくて、人の気配の欠片もない。
公園の中へ踏み込んで、志水は香穂子の片手を解放する。少しだけ上がった息を、香穂子は片手を胸に当てて、はあ、と溜息を付いて落ち着けた。
「香穂先輩」
志水の呼びかけに、香穂子は上目遣いに視線を上げる。意外にも、息一つ乱していない。結構体力があるんだなあと、妙なところに感心した。
「お誕生日、おめでとうございます」
妙なところに意識が行ったから、志水の言葉に反応するのに少し間があった。
あ……ええっ!? と香穂子が珍妙な声を上げた。
「……お誕生日、ですよね? 間違ってましたか?」
「う、ううん! 間違ってないけど。……志水くんが私の誕生日、知ってるなんて思ってなかったから」
慌てて香穂子は首を横に振る。
間違ってはいない。だが、志水がそれを知っているのが予想外だった。
もちろんちゃんと教えて、祝ってもらいたいという希望はあったのだが、自分から教えることによって、逆に志水に何かを要求しているみたいになることが嫌だった。特別な何かをして欲しいんじゃなくて、自分にとっての記念日をただ一緒に居て欲しい。ただそれだけの気持ちではあったけど、そういうささやかな希望を上手く伝えられる自信がなくて、数日前から何度か打ち明けようと試みていたのだが、結局香穂子は志水に言い出せずじまいだったのだ。
「実は、かなり前に、天羽先輩に聞いていたんです。……先輩に直接聞かないで、お祝を言って、びっくりしてもらいたかったから」
嬉しそうに、志水がにっこりと笑った。
悪戯が成功した子供みたいな笑顔。
ふわりとした柔らかな笑顔は知っているけれど、彼のこんな無邪気な笑顔を見るのは初めてのことで。
先程もらった、おめでとうの言葉の幸せな余韻と共に、香穂子の胸の中に、じわりと暖かな感情が浮かんで来る。
……嬉しい。
「ありがとう……志水くん」
思わず感極まって泣き出しそうになるのを必死で押さえて、香穂子は俯いて礼を告げる。香穂子の頭上で、小さく笑う志水の気配がする。
「お礼を言うのは、まだ、早いです。先輩……これ、もらってくれませんか?」
「え……」
志水の声に、反射的に顔を上げた。その香穂子の目の前に、志水が制服のポケットから取り出した、小さな包みを差し出した。
「あ、えっと……」
「……よかったら」
志水に差し出されたものをどうしていいか分からず、あわあわとうろたえる香穂子の片手を取り、志水はその掌の中に、自分のもっていた包みをしっかりと握らせた。
「開けてみて下さい」
「……あ、うん」
咄嗟にぎゅ、とそれを握り締めた香穂子が、頷いて、またあわあわとした様子で小さなビニールの包みに貼られたファンシーなテープを剥がす。片手の掌を上向けて広げ、もう片方の手で包みをひっくり返すと、軽いものが手の中に転がり落ちてきた。
「か、……可愛い……」
ぽつりと香穂子が呟く。
掌に収まったのは、花の飾りが付いたヘアピン。オレンジとピンクの、丸いパールビーズの花びらが太陽の光を反射した。
「先輩、楽譜読む時とか、無意識で前髪うるさそうにしてたから、こういうのはどうかなと思って。……僕、女の人に誕生日プレゼントあげるの、初めてで。こんなものでいいのかどうか、よく分からなかったんですけど……」
「『こんなもの』だなんて……」
咎めるように志水の言葉を繰返し、香穂子は手の中のヘアピンを、大事に大事に、両手で握り締めた。
「……充分だよ。私には、もったいないくらいだよ」
確かに、そんなに値が張るようなものじゃない。
だけど、人から与えられるものは、値段なんかで価値が決まるものではないということを、香穂子は痛いくらいに実感する。
香穂子の日常を知る志水が、香穂子の日常の為に、選んでくれたもの。
それはきっと、他のどんな高価なアクセサリーをもらうよりも、嬉しいことだ。
「……ありがとう! 大事に使うからね」
頬を染め、心の底から嬉しそうに笑う香穂子に、志水も安堵したように笑って。
肩からずり落ちそうなチェロとディパックを一度持ち直して、それから香穂子へと両手を伸ばす。
「……貸して下さい。せっかくだから、付けてみてもらいたいです」
「うん!」
大きく頷いて、香穂子は志水にヘアピンを差し出す。
丁寧に土台から抜いたヘアピンの端を唇にくわえて、志水がその綺麗な指先で香穂子の前髪をかき分ける。
(……うわ)
志水の存在が近い。
身長差があまりない自分達は、向き直って顔を合わせると、とてもその距離が近くて。
志水の綺麗な顔立ち。長い睫毛、通った鼻筋とか。
静かな息遣いまでもが近くて。
思わず、魅入られるみたいに視線を奪われる。きちんと志水の手で長い前髪が纏められて、視界が開けるから。
余計に、志水の姿が目の前を埋め尽くした。
「……出来ました」
静かに告げた志水が、一歩後ずさって香穂子の顔を見つめる。
しばらくの間、しげしげと眺めていて、やがて満足したように笑って頷いた。
「……とても、可愛いです。……香穂先輩」
柔らかな赤味の強い癖のある髪に、留まるオレンジとピンクの花。
……それは、志水の心そのもの。
その色が持つ、暖かな愛おしさを。
彼女という存在に、止め置くための象徴。
「……大好きです、香穂先輩」
どうしても溢れ出てしまう愛おしさを言葉で紡ぎ。
そして、志水は近い場所にある香穂子の唇に、柔らかく口付ける。
大切な貴女が産まれてきた、この幸せな一日に。
止め処ない祝福が貴女へと降り注ぐことを。
心の底から祈って。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.11.12 加筆修正:10.5】
いろいろとお世話になりました友人へ、お礼の意味も兼ねて押し付けさせて頂きました。(お礼……?)
ヘアピンを付けてもらうエピソードは、実は水日でなくてもどこかで書いてみたかったんですが、ここで念願叶って満足。
私的に、こういうことを放課後でなく朝にやる辺りは、何となく志水らしいのではないかと(笑)ちなみに、当サイトの香穂子は3月早生まれ設定なんですが、友人にプレゼントした創作は全て友人の誕生日設定で書いています。この創作の文面には日付は出てきませんでしたけど(笑)


