談笑していた音楽科の生徒達の視線が一斉に自分の方に向けられるのを感じる。遠慮のない痛い視線がぐさぐさと突き刺さってくるようで、香穂子は小さく息を呑んだ。
普通科に所属する香穂子は練習室の予約を取るのにも一苦労で、今日みたいに結局予約が取れないまま校内のあらゆる箇所でコンクールの為の練習をすることも珍しくはない。未熟で練習不足なままの音色は、道行く聴衆達の眉をひそめさせたりもする。香穂子より遥かに実力があるはずの、音楽科の生徒たちが多い音楽室や、この講堂では尚更の反応だろう。
注目を浴びることは怖くて、いつもはこそこそと片隅で行うはずの演奏を、香穂子は敢えてステージのど真ん中で強行しようとしている。冷ややかな視線も、これ見よがしの陰口も、この身に浴びることを全部覚悟の上で。
(どんな演奏だとしても、これが今の自分の精一杯だって。胸を張って弾くんだ)
それが、演奏家として聴衆に恥じない演奏をする第一歩なのだと。
彼が、そう教えてくれたから。
「ああ、もうっ!」
思わず大きな声で口に出して叫び、香穂子は誰もいない屋上のベンチにどすんと勢いよく座り込む。
ぐしゃぐしゃと髪の中に指先を突っ込んで、頭を抱えた。
きっと誰も信じてくれない。うっかり音楽の妖精なんぞを目にしてしまったために巻き込まれた、学内音楽コンクールへの参加。事態がここまで動いてしまった以上は仕方がないと、香穂子なりに懸命にコンクールに臨んでいるつもりだ。けれど突然の普通科からの参加者は、当然と言うか何と言うか、あまり周囲からの評判は良くなくて、風当たりも強い。
正真正銘、香穂子の演奏技術は、妖精から与えられた『魔法のヴァイオリン』とやらに頼っている状態だから、あまり大きな顔は出来ない。それでも少しでもステージに立つのにふさわしくあるよう、香穂子に出来る最大限の努力をしているつもりなのに。
(そりゃ、応援してくれる人もいれば、批判する人がいるってことも分かるんだけど……)
香穂子のこれまでの人生は、到って平和なものだった。
取り立てて誉められることはないが、執拗に叱られることもない。きっと、仲の良い友人以外には、卒業後に「そんな人もいたっけね」と、忘れ去られてしまうような無害な存在。日野香穂子という人間は、そんな目立つことのない平凡な存在だ。
だからこそ逆に、香穂子は行く先々で後ろ指をさされ、こそこそと陰口を叩かれるという経験も、これまでにはなかった。
ドラマや映画でそういう場面を見たことはあるけれど、実際にその立場に立たされると、これほどまでにストレスを抱え込むものなのだとは知らなかった。
……もう辞めてしまいたいと、何度も思った。
決して、香穂子が望んで選ばれたコンクールではない。
だが、初めて触れたヴァイオリンという楽器が、とても好きで。……弾くことが楽しくて。
その気持ち一つだけで、これまで何度も折れそうになった自分の心を支えてきたけれど。
(もう、ここが限界なのかなあ……?)
脚の上で頬杖をつき、ふーっと香穂子は大きな溜息を吐く。
同じコンクールに参加する人達は、一部を除いて、概ね香穂子の参加を歓迎してくれているが、本来の実力は香穂子では到底手の届かないところにいる人達だ。考えてみれば、そんな実力者たちの中にど素人の香穂子が混じっていること自体がそもそもの間違いなのだから。
楽しいという気持ちだけでこの苛酷な状況を乗り越えようとすることが、もう無謀の域に達してしまっているのかもしれない。
香穂子はベンチの上に置いた傍らのヴァイオリンケースを、ちらりと横目で見る。
……コンクールを辞退するのなら、これはリリに返さなければならないだろう。
コンクールに参加することは辛いけれど、同時にヴァイオリンを弾けなくなることも……今はもう辛い。
そのことが、今の香穂子を迷わせているのだ。
「……?」
香穂子は、不意に身を起こした。
誰もいないと思っていた屋上に、突如ヴァイオリンの音色が響き始めたからだ。
慌てて振り返ってみると、背後の少し高くなった場所でヴァイオリンを弾く男子生徒がいる。その凛とした音楽科の制服を纏った後ろ姿を、香穂子は知っていた。同じコンクール参加者の、月森蓮。
……きっと、香穂子の参加を良くは思っていない、『一部の人』。
(……でも、月森くんにはそう思われて当然だ)
月森が奏でる旋律に耳を澄ませながら、香穂子はもう一度盛大に溜息をつく。
彼の演奏は、香穂子のものとは根本からレベルが違う。幼い頃からヴァイオリンを習っていた生粋のヴァイオリニストだと言うから、ど素人の香穂子と比べること自体間違っているのであろうが。
(……綺麗な音)
月森のヴァイオリンは、香穂子がコンクールに参加してみようと思ったきっかけの音。
妖精に一方的に押し付けられただけなら、きっと香穂子はヴァイオリンを弾いてみようとすら思えなかった。最初に、偶然彼の演奏を聴くことが出来たから、今の香穂子がある。
綺麗な、綺麗なヴァイオリンの音色。
……あんな音が、もし自分にも弾けるならと、希望を抱いてしまったから。
(正しい位置だ)
今の自分たちのいる場所をかえりみて、香穂子は思わず苦笑する。
月森は一段高い場所にいる。香穂子が見上げることしか出来ない、届くはずのない場所で、迷うことなく一途にヴァイオリンを弾いている。反して香穂子は、迷って躓いて……月森の足元で、ずっともがき続けているだけなのだ。
月森の演奏が終わり、香穂子は反射的に拍手をする。
その拍手の音に、驚いたように月森が振り返った。香穂子が月森の存在に気付いていなかったように、月森も香穂子の存在に気付いていなかったのだ。
「日野?……いつからそこに」
「結構前からいたけど……。ドアが開くのに、気付かなかった?」
「……ああ、練習を始める前は譜読みに集中していたから」
淡々と月森が告げる。
屋上のドアは月森の真下にあるはずなのに、重いドアの開閉に気付かないということは相当集中していたんだなと香穂子は感心する。
一人頷く香穂子をじいっと見つめていた月森が、ふと怪訝そうに眉を寄せた。
「……どうした? 何かあったのか?」
「えっ」
月森が不意に尋ねる。
彼からそんなことを問われると思っていなかった香穂子は、驚いてぱちりと大きく瞬きをした。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「……特に明確な理由があるわけではないが、強いていえば、君が少し元気がないように見えたからだろうか。……もし俺の勘違いなら、気にしなくて構わない」
香穂子は小さく息を呑む。
他人のあれこれには全く興味がないように見える月森に、落ち込んでいることを見抜かれるとは思っていなかった。
見抜かれるはずのない人に、見透かされるほどの落胆。それほどまでに、自分が今置かれている状況は苛酷だと……少なくとも、香穂子自身はそう感じているということだ。
……だから、なのだろうか。
香穂子は何だか、月森に向かって急に弱音を吐いてみたくなる。
「くだらない」と一蹴されるのがオチだと分かっていても、溺れる者は、ワラでも掴むと言うではないか。
「……月森くんは、いいよね」
苦く笑って、足元を見つめて。
香穂子はぽつりとそんなことを呟く。
……俯いて視線を反らしてしまったから、今月森がどんな顔をしているのかは分からないけれど。
「ヴァイオリン上手くて、コンクールも全然余裕で。先生とか、先輩たちからも一目置かれてるし、そもそもコンクールの前評判は、ダントツの優勝候補なんだもんね。……私も、月森くんみたいに弾けるのならよかったのに」
そうすれば、こんなふうに。
ヴァイオリンを続けることに、苦痛は感じなかっただろう。
……一生懸命弾いているだけなのに。
ただ、楽しくヴァイオリンを弾きたいだけなのに。
……自分が気にしなければ済む話だということは、ちゃんと分かっているのに。
香穂子は、香穂子の音色を聴く人の反応が怖い。
眉を顰めたり、陰口を叩かれたり。……ひどい演奏だと笑われることが怖い。
それが当然なのだということは、頭では理解していても。
「……随分と、君らしくない物言いだな」
静かな月森の声が響く。
香穂子が恐る恐る顔を上げると、香穂子を見つめている、どこか苦笑するような柔らかな月森の表情。
「下手であろうがなんだろうが、ただヴァイオリンを弾くことを楽しむのが君の信条なのだと思っていた。第2セレクションも終わって、コンクールにもそれなりに慣れてきているはずなのに、今更そんなことを言い出すのか?」
「……だけど」
「君と俺のスタンスは違う。俺がコンクールに置いている意義と、君が抱いているものは最初から違うだろう。なのに、どうして俺の事を羨むんだ」
……月森と同じ景色が見たいわけじゃない。
見ることは叶わないだろうと最初から分かっている。
だが香穂子は月森のように、 揺らがず、真直ぐに音楽に向き合いたい。
周囲の誰の反応も気にせず、ただ自分の理想の音色を追い求めて。
そこに辿り着くための強さが欲しい。
「それに先輩たちが俺に一目置いているなんて、勘違いもいいところだ。……コンクール前から生意気だ、目障りだと批判されているし、自分たちを差し置いて俺がコンクール参加者に選ばれたことで、因縁をつけられたり、嫌がらせめいたことをされたこともある」
「ええっ」
溜息混じりに月森が暴露したことに、香穂子は目を見開いて大声をあげる。小さく笑う月森が、柵に歩み寄ってそこに手をかけ、身を乗り出すようにして香穂子のことを見下ろした。
「……奏でる音楽を肯定する人がいれば、否定する人もいる。それは必然だ。万人に受け入れられる音楽を作り上げることは、余程の演奏家にならなければ無理なことだろう。その域に到達するには、俺もまだまだ力不足だ。君に羨まれるほどの存在じゃない」
「月森くんは、辛くはならないの?」
ヴァイオリンを弾くこと。
その紡いだ音色を、見知らぬ誰かに否定されること。
「……自分の実力が伴わないことに、苛立つことはある。だが、他人の反応を気にする前に、如何に自分が満足出来る演奏をするかだ。自分自身が納得出来ない演奏を、他人に納得してもらおうなんて、それは虫が良過ぎるだろう」
……香穂子の頭の中を覆っていた、正体の分からない靄が急に晴れたみたいだった。
拙い音楽。
思い通りには響かない音色。
自分でそう認識する旋律を、他の誰かには甘受してもらおうなんて、そんな望みを持つこと自体、初めから間違っていたのかもしれない。
……頑張っているから、懸命にやっているから。
それを免罪符にして、実力のなさを帳消しにしてもらおうだなんて、確かにそれは随分と虫のいい話だ。
「……では、俺は先に失礼する」
「あ、月森くん!」
柵から離れて、帰り支度を始めようとした月森に、香穂子は慌てて声をかける。
小さく溜息を落としながら。
だが特に嫌がる素振りは見せずに、月森がもう一度香穂子を見下ろした。
「まだ、何かあるのか?」
「えっと、あのね。一つだけ教えてもらってもいいかな? ……月森くんは、普段どんなことを考えながら、ヴァイオリンを弾いてるの?」
香穂子の手の届かない高い場所で、ヴァイオリンを弾く人は。
どんな景色を見ているのだろう。
きっと、それは香穂子には到底理解の出来ない風景だろうけど。
それでも、ただ聞いてみたかった。
「……相変わらず、君の問いは脈絡がないな」
苦笑する月森が、その時香穂子に与えてくれた、その言葉は……。
月森があの時くれた言葉を、香穂子は心の中で繰り返す。
(自分なりに曲と向き合って。)
(その曲の背景に照らし合わせて得た自分の思いを、きちんと聴いてくれる人に届けられるように。)
(未熟でも、拙くても。)
(その瞬間、自分の最大限の実力が発揮出来るように。)
(そうして人の心を掴むのは、俺よりも君の方が得意だろう?)
珍しく、冗談めかした口調でそう締めくくって。
初夏の陽光を背に、柔らかく月森は微笑した。
香穂子がずっと、追いかけ続けることしか出来ない人。
どんなに努力しても、必死で食らいついてみても、香穂子が進んだその分、更にずっと先の方を歩いていくであろう人。
……見上げる空の、更にその上方の。
永久に手の届かない空の天辺で輝く人。
それはまるで、月のように。
そんな高みにいるはずなのに、更に上を目指していく人。……歩くことを決して止めない人。
……香穂子は、その場所に行くことは叶わない。
それでも、香穂子もそうでありたい。
月森のように、迷わずに、堂々と胸を張って。
更に上を、もっと先を目指していく、立ち止まらない生き方をしたい。
講堂のステージの真ん中で。
拙い音楽を香穂子は奏でる。
月森のように、何事もなく周囲を気にせずに平気で立つことはまだ少し難しいから。
目を閉じて、周りの景色を遮断して。ただ自分の音だけを聴いて。
この曲を知った時に自分が抱いた感情と感動が、少しでも聴いている人に伝わるように。
一曲を弾き切って、香穂子はしばしの間動きを止める。
しんと辺りは静まり返っている。目を開くのが怖かったけれど、それでもゆっくりと、閉じていた目を開いてみる。
瞬間、わっと大きな歓声と拍手が沸き上がった。
足元ばかりを見ていないで。
胸を張って、真直ぐ前を見て。
その時の精一杯で、自分の力を惜しみなく発揮して。
何よりも自分自身に恥ずかしくない演奏を続けていけばいい。
(そうすれば、俺の音よりももっと、君の音はいろんな人に受け入れられるだろう?)
講堂の片隅で、偶然香穂子の演奏の場に居合わせた月森は、音楽科の生徒たちに囲まれて照れたように笑っている香穂子を遠目に見つめ、小さく笑う。
香穂子が奏でる音楽は、たとえ未熟で、拙くあっても。
月森のように、周りを振り切って高い場所を目指すような、無機質で孤独な音楽ではなくて。
地に足を付けて俯いている人たちが、明るい光に目をやって。
顔を上げて、届くかどうかも分からない高い空の天辺を、希望を抱いて目指すために。
身近に寄り添い、励まして。
温もりを与えるような。
そんな、優しい音楽なのだから。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.4.24 加筆修正:10.5】
渡瀬主催、「神様の言うとおり!」という企画へ提出した創作です。「講堂/見上げる/そうでありたい」という3つのキーワードを詰め込んで書いてます。
後になってこの企画のキーワードを見てみると、見事に渡瀬臭がして、我ながら可笑しかったです(笑)
とにかく仕事が辛くて凹んでる時期に書いているので、そういう信条がモロに出てる作品かとも思います。一応前向きになってるのが救いかな?


