花の形は見慣れたもの。日本では当たり前のようにどこそこで見られる、白い五枚の花弁。桜の花。
それが咲いていて可笑しいと思えるのは、今の季節だ。秋から冬へと移り変わる頃。
温暖化が囁かれるようになって久しいから、月森が暮らす場も例外なく、夏の名残りの暖かさが、残っているからだろうけど。
狂い咲きというやつか、と心中でぽつりと呟き、そして月森は傍らを歩く、頭一つ分低い位置にある、愛おしい女性の顔を見下ろす。
……彼女に伝えたら、何て言うだろう。珍しいね、とか、暖かいから桜も間違えたのかなとか。
きっと、彼女らしい、優しい口調でそんなことを呟くんだろうなと思ったら、それだけで何故か、心が暖まる心地がした。
おそらく、彼女に出逢う前の自分なら、この小さな一輪の花に気付くことはなかっただろう。善くも悪くも、自分の生活はヴァイオリンのことだけで回っていた。……それだけのことで、手一杯だった。
それが自分自身で選んだ生き方なのだから、そんなAll or Nothingさを後悔したり、批判するつもりは今更、毛頭ないのだけれど。
それでも、彼女に出逢って。
彼女の多彩な喜怒哀楽に、満ち足りた感情に触れる度。
少しだけ、自分の生き方が、勿体無い生き方だったのだろうかと思うことがある。
彼女のように、小さなことに一喜一憂して。
沢山のものに、視線と感情とを向けて。
そうして、いろんなささやかな感動を吸収して生きていられたら。
もっと、自分が奏でるヴァイオリンは、彩りに満ちたものであったのかもしれない。
彼女が生み出す、音色のように。
「……月森くん?」
香穂子の呼びかけに、ふと月森は我に返る。軽く瞬いて声の方を見つめれば、数歩先にいる香穂子が怪訝な顔で自分を振り返っていた。
狂い咲きの一輪の桜を眺めているうちに、自分は自分自身の思考に陥って、いつの間にか歩く足を止めていたらしい。
「ああ……すまない」
もう一度、大きく瞬きをして月森が詫びると、香穂子が月森のところまで戻って来て、「何?」というように小さく首を傾げる。そんな彼女の反応に苦笑しながら、月森は、指先を上げて、香穂子に示す。
……季節外れの、桜の花を。
「え……あ、あれ? こんな時期に桜が咲いてる! 最近、暖かいから、春と間違えてるのかな?」
躊躇いなく月森が指し示した位置に視線を上げ、すぐに花に気付いた香穂子が歓声に似た声を上げる。
その声が放つ言葉が、やはり自分が想像していたように、優しいものだったから。
月森は、何だかとても嬉しくて、思わず小さく微笑んだ。
「ちょっと、気の早いお花見だったよね」
いつもと同じ通学路。とても大切な宝物を発見したみたいに、嬉しそうに笑う香穂子が、内緒話をするみたいなひそめた声で、月森に語りかけた。
そうだな、と応じる月森も柔らかく笑う。……たった、季節外れの小さな花を見つけたことで、これほどまでに幸せな気持ちに慣れるのは、隣を歩く香穂子のもたらす効果だと、月森は知っている。
「でも、きっと。少し前の月森くんなら気付かなかったかも」
唇に指先を当てて、考え込むようにして呟く香穂子の言葉は、きっと彼女自身、特に意識して話しているのではないのだろうに、妙に正しく的を付いている。
「……俺も、そう思う」
だから苦笑して、月森もそう呟く。多分、君のおかげだと告げると、香穂子は照れたように頬を染めて、自分の足元に視線を落とした。
きっと、彼女に出逢わなければ。
自分は、こんな些細なことを知らないままだった。
花が咲く、季節の移り変わり。
頬を撫でる風の優しさ。
そして、自分を愛していてくれる人が、側にいることの幸せ。
愛されていることの、その意味。
……家族は、きっと自分を普通に愛していてくれたはずなのに。
自分も、きっとそれを知らないわけではなかったのに。
愛し、愛されることに不器用なままだった。愛され方を知らなかった。
……過剰に、全てを委ねるのでなければ、甘えても許されること。いっそ、甘えてしまった方が、自分を愛してくれる人に応えられるということを。
自分はずっと、知らないままだった。
独りで生きているような気がしていた。本当の意味でたった独り放り出されてしまえば、きっと生きることすら出来なかったのに。
……今、ヴァイオリンを月森が弾き続けられるのは、その道を邁進しようとする自分を見守って、支えてくれた家族の愛情があって。
そして、そんな月森が生み出す不器用な音楽を真正面から愛してくれる、香穂子のような存在があって。
そうして、成り立っているものなのに。
いつしか、自分は自分たった独りの力でヴァイオリンを弾いているような気になっていた。
孤独に、一心に。
ヴァイオリンを弾き続けることだけが、自分が目指す場所へ辿り着くための、唯一の手段だと勘違いをしていた。
無駄に思えること。余計だと思えること。
そういうものですら、全て心一つで糧に出来るということも知らないままで。
教えてくれたのは、香穂子。
自分とは全く違う彼女のヴァイオリンの音色が。
自分とは全く違う、ごくごく普通の家庭の中で磨かれて来た、彼女の感性が。
月森のヴァイオリンに。
……月森という人間の、どこかに。
欠けていたものを教えてくれた。
(……だから、きっと、俺は……)
きっと、そんなものは誰もが当たり前に持っているのだろう。
月森が知らなかっただけで、教室の隣の席に座っている人間だって、普通にそんな感性を持ち合わせているはずで。
ただ、香穂子だけが。
あえて、そんな優しく暖かい、ちっぽけなものから頑に目を反らしていた月森に、根気よくその価値を教えてくれた。
逆らっても、拒絶しても、めげずにその暖かさを教えてくれた。
だから、きっと。生涯、月森にとって香穂子という存在は。
ただ、ただ。……愛おしいばかり。
「……風が、優しいね」
少し冷たくなった秋の緩やかな風に乱された髪を押さえながら、香穂子が呟く。
そんなふうに、人によってはどうでもいいと思えるような感傷を、香穂子はきちんと言葉にして教えてくれるから。
知ろうとしていなかった月森にも、その風の優しさが分かる。
枝先に、ほんの一輪ひっそりと季節外れに咲いた桜の花に目を止めるように。
生きるだけの為には無駄に思えるような些末事に目を向ける優しさを、彼女は月森に教えてくれる。
その感謝を伝えるのに、言葉で告げるのは安っぽくなってしまう気がして、微笑みながらそっと彼女の指を自分の指に絡めたら。
香穂子は何かを心得たように。
頬を撫でていく、柔らかな風のように。
優しく、嬉しそうに。
甘く、微笑み返した。
あとがきという名の言い訳
今になってみるとよくやってたなあと思いますが、オフ活動の一環で「会員制配布本」というものをやっていた時に、6回以上配布を希望して下さった方のリクエストに応じて書き下ろしていた短編です。
でももう、いつ執筆したのか記録が飛んでいる……(汗)
渡瀬が暮らしているのは比較的暑い(暖かいとか言わない)地域なので、秋口には桜咲いていること多いです。特に台風とかで一旦葉が散ってしまった後。気温的なこともあるんでしょうが、アレは葉が散ることによって桜が冬を越したと勘違いして咲くというのが真相らしいですね。


