ぼんやりと心の中で呟きながら、香穂子は澄み渡った春間近の青空を仰いだ。
春が近いとはいえ、まだ気温は寒くなったり暖かくなったり。文字どおりの三寒四温を繰り返している。
きちんと天気予報をチェックしてから家を出てくればよかったと、ほんの少し香穂子は後悔する。窓から見える外の風景が、あまりに綺麗な青空で、心地よさそうだったから、薄手のマフラーはかろうじて首元に巻き付けていたけれど、肝心な手袋をはめ忘れていた。
(志水くんは、ちゃんと手袋してくるかなあ)
まだ待ち合わせ場所の駅前広場の噴水前に辿り着いていない恋人のことを、香穂子は心配する。
ちょうど待ち合わせ時間ぴったりに、志水からメールが届いていた。どこかで事故か何かがあったらしく、電車が遅れているという知らせ。
(焦ってないといいな)
それが、例えば寝坊したとか電車に乗り遅れたとかの知らせだったとしても、これから二人で過ごす楽しい時間に心を巡らせれば、待つことはそんな苦にはならない。それよりも、ぼんやりとしているようにみえて実はいろんなことを気にしやすい恋人が、あまり気に病まないでいてくれるといいと思う。
(……でも、寒いなあ)
強い風に香穂子は小さく身震いし、きょろきょろと視線を辺りに巡らせた。あれ以来、志水のメールは届いていない。いつ辿り着くか分からないからと我慢して待ってみたけれど、いっそ暖かいココアでも購入して抱えていた方が気温を気にすることなく待てるような気がした。
「……香穂先輩!」
コーヒーショップでもないかと立ち上がって周りを見渡していると、背後から聞き慣れた声がかかる。振り返ると片腕にチェロを抱え、柔らかな髪を風に泳がせる志水が懸命に走って(といっても、チェロを抱えているためにそこまでの速度はないが)香穂子のいる場所に向かって来ているのが見えた。
「あ、……あ、志水くん! 走らないで! ゆっくりでいいから!」
重そうなチェロを抱えた志水を気遣って、香穂子が大声で志水を制する。それでも志水はできる限りの早足で、ようやく香穂子のいる場所に辿り着く。
「遅く……なって、ごめんなさい」
若干息を切らせて、深々と志水が頭を下げる。事故だったんだからしょうがないよと慰めつつ、身を屈めた香穂子が志水の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 急がなくてよかったのに」
「先輩が、どこかに行こうとしてるのが見えたから。……もしかして、僕が遅くなったから、帰っちゃうんじゃないかって思って……」
馬鹿だなあ、と香穂子は苦笑する。
「そんなわけないじゃない。もし、志水くんが逆の立場だったら、私がちょっと遅れたって、怒って帰ったりしないでしょ?」
まっすぐに見つめられて、はっきりとそう告げられ、志水はぱちりと大きく瞬きをする。香穂子の言葉を噛み締めるように脳内で反復し、しっかりと吟味して呑み込んだ上で、そうですね、と頷いた。
「……でも、どこかには行こうとしてたんですよね?」
「あ、うん」
志水と同じようにこっくりと頷いて、香穂子は寒さで赤くなった両手の指先を、志水に掲げてみせた。
「うっかり手袋を忘れちゃってね。寒かったから、何か暖かいものでも買って来て暖めようかなって思って、お店探してたんだ。よかったら、志水くんにも何か買って来ようか?」
手袋……と小さく呟く志水が、何か痛いものでも見るように、香穂子の赤くなった指先を見つめ、顔をしかめる。そんな志水のチェロを抱える手にしっかりと手袋がはめられているのを見て、香穂子は心の中でこっそりと安堵した。
「志水くん、カフェオレでいいかな? じゃあ、ちょっと行って」
「香穂先輩」
身を翻して店に向かおうとした香穂子の片手を、慌てて志水が掴んで止める。腕を引っ張られる形になった香穂子がきょとんとして振り向いた。
「ど、どしたの?」
「わざわざ外で飲んだりしないで、二人で一緒にお店に行けばいいと思います」
「あ」
志水に指摘されて、ようやく香穂子はその選択肢に気付く。志水と待ち合わせたのがここだから、ここから動けないから、という前提の上での、買い物の予定だったのだ。
「そっか。そうだよね。ゆっくりお茶すればいいんだ」
「でも、だからといって、いつまでも先輩の指が冷たいままだと、僕が困りますから」
きっぱりと言い放ち、志水はいつの間にやら外していた自分の手袋を、掴んだままの香穂子の片手に、よいしょ、と嵌め込んだ。何度か角度を変え、きちんと香穂子の指先を手袋の中に押し込めたところで、ふと首を傾げた。
「先輩……もしかして、僕の手袋、大きいですか?」
「えっと……そう、みたい」
きちんと嵌められた志水の焦茶色の手袋は、香穂子の指の第一関節くらいの空白を、指先に作り上げていた。
「志水くんって……手、大きいんだね……」
「そんなこと、ないと思います。土浦先輩を見るたびに、チェロが持ちやすそうだなって、羨ましくて」
論点がずれてるような、と内心思いながら、香穂子は春の澄み渡った空に、指の関節一つ分、ぶかぶかの手袋が嵌まった掌を掲げてみる。
これが、志水の掌の大きさ。
あの、正しく綺麗なチェロを弾くために存在する、彼の掌の。
(……男の子なんだなあ)
もちろん、香穂子はそういう気持ちで志水が好きで、そういう意味で、彼を見ていて。
性別の違いだって、ちゃんと分かってるはずなのに。
今こうしてはっきりと比べられるものを見せつけられて。
それで初めて、心の底から、彼が自分とは違う性を持つ人間なんだと実感した気がした。
「でも……ぶかぶかだと、あまり暖まらないんじゃないでしょうか?」
「そ、そっかな? 志水くんがずっと嵌めてたから、志水くんの体温が残って充分暖かいと思うけど……」
生真面目に呟く志水に、戸惑いながら香穂子が答えると、志水はその答えが聴こえなかったかのように一人思案して、それからふと柔らかく笑んだ。
「じゃあ、こうしましょう」
片方の手に嵌めた手袋はそのままに。志水は裸になった自分の掌で、そっと香穂子のもう片方の掌を包み込む。
……指の関節一つ分大きな掌が。
しっかりと香穂子の小さな手を包み込んで、優しい温もりを与える。
「これで、喫茶店まで行きましょう。もう少し我慢して下さいね。先輩」
にっこりと笑う志水に、真っ赤になった香穂子がぱくぱくと物言いたげな唇を動かして。それから、諦めたように口を閉じる。
涼しげな表情で歩き出す年下の恋人の横顔を、頬を赤く染めたまま、上目遣いでじとりと睨み付けた。
骨張ったかたく、暖かな掌は。
温もりを残したままの片手の手袋よりも、余計に志水が男の子であることを如実に表していて。
もしかして、最初からこうすることが目的だったとか言わないよね?と、意外に腹黒い恋人の心中を探ってみたりして。
それでも。
まあいいかと香穂子は小さく笑う。
冷えていた指先は、繋いだ手から温もりを分け与えられ。
そうして、これから幸せな1日が始まるのだから。
あとがきという名の言い訳
以前、オフ活動の一環でやっていた、会員制配布本に登録いただいていた方への進呈物です。6回配布本を受け取っていただくと、リクエストに沿った創作をプレゼントしていました。
志水×日野という指定で書いたものです。別に要求はされていないけれど、極力甘いものを……!とか思ってたような。どうも志水のキャラソンが元ネタになっていたらしいです。(←忘れた)


