朝一番で破り取ったカレンダーの下から、蛍光マーカーで目立つよう念入りに自分で花丸を付けた日付が現れる。その不格好な花を一瞥し、自分の空想通りのお膳立ては未だに出来上がっていない現状に、香穂子は深い溜息をついた。……親友の天羽からは「時には『積極的』と上手く言い換えられる厚かましさが必要よ?」と、ちゃんとアドバイスされていたのに。
お気に入り色の鮮やかな花模様。数カ月前、やがて辿り着くこの日を生まれて初めて出来た『彼氏』とどう過ごすのかを楽しみにしながら、浮き足立つような気持ちで香穂子自身が記したものだ。だが、あまりそういうイベント事に関心がなさそうな彼には、今日までとうとう言い出すことが出来なかった。
12月1日……この日が自分の誕生日なのだと。
別に彼氏と過ごすだけが誕生日の醍醐味ではないのだし『女友達に美味しいケーキを奢ってもらって、楽しくお喋り』という選択肢も捨て難いものでは逢ったが、彼氏が出来て初めての誕生日ということもあって、逆に周りの方が香穂子に気を遣ってくれたようだ。
その気遣いが裏目に出て、ちょうど休日にあたる香穂子の17回目の誕生日には、悲しいかな、何の予定も入っていない。
(こんなことなら、最初から土浦くんに教えておけばよかったな)
土浦の誕生日は7月下旬。恋をする女の子としては抜け目なく、天羽にしっかりと情報を流してもらって、当日に「おめでとう」の言葉とプレゼントを渡した。……その時にでも言っておけばよかった。「私の誕生日は12月だから、お返しちゃんとちょうだいね!」とでも。上手く冗談の中に紛らわせて。
……本当は、プレゼントもお返しもどうでもよかった。「おめでとう」の言葉だって、必要がないのかもしれない。香穂子が生まれた日がいつかなんて、土浦にとって特に必要な情報じゃないというのなら、別に彼が知らなくたって構わない。
ただ、自分にとってはそれなりに大切な記念日に、彼に逢えないことが辛い。「逢いたい」と言うことがそもそも勝手な自分の我侭だとしか思えないし、誕生日だからと押し付けてしまうことも憚られて、結局土浦に今日の約束を取り付けることが出来なくて、今に至るのだ。
机の上で、何度も何度も、二つ折りの携帯を指先で立てて、倒して、くるりと回して。そんな意味のない所業を香穂子は繰返す。フリップを開いて、土浦の番号を呼び出して、ボタン一つを押さなければ何も変わることはないのに、どうしても、土浦に連絡を取る勇気が持てなかった。
(だって、疲れているかもしれないし……)
春のコンクール以来、一旦距離を置いていたピアノへと戻ってきた彼は、以前にも増して忙しそうだ。せっかく身体を休めることができる貴重な休日なのだから、香穂子の個人的な事情で振り回してしまっては、彼に申し訳がない。
……だけど、本当は。
それが単なる、自分のために用意した言い訳でしかなくて。
誕生日だから逢いに来て、なんて、我侭を言ってしまうことで。
土浦に幻滅されないか。……重荷に思われてしまわないか。
嫌われてしまわないかなんて、そんな自分勝手な下らない理由にこだわっているだけなのだと、香穂子は気付いている。
本当は、土浦がどうのこうのと言う話ではない。
単に土浦の前では、聞き分けのいい優等生な彼女でいたいだけだ。
(……馬鹿だなあ)
無理と我慢を繰り返していては、いつか限界が来るのも分かっている。
それでも、土浦に愛想を尽かされたくない。……自分の腑甲斐無さで、彼を失いたくない。
そのために、香穂子は今日も我慢して。後日、もし今日のことを土浦に知られたとしたら「私も忘れてたよ」なんて言いながら、本心を隠して笑うのだろう。
そんな自分が心底馬鹿らしくて、香穂子はもう一度、盛大に溜息をついた。
……その時。
弄んでいた携帯が突然音楽を奏で始め、香穂子は反射的にびくっと携帯に触れていた片手を引っ込めた。かたん、と軽い音を立てて机の上に投げ出された携帯を、一瞬の間の後、今度は慌てて手に取った。携帯が歌う曲は「ラ・カンパネッラ」。いろんなサイトを渡り歩いてようやく見つけた着メロで、「土浦くんといえばコレだから」と彼からの着信専用に設定したら、「嫌味かよ」と苦笑された。
だから、この音楽で香穂子の携帯を鳴らすのは、この世でたった一人だけなのだ。
「ももも、もしもし!」
上擦った声で慌てて言うと、回線の向こうから『どんだけ焦ってんだよ』と苦笑する気配。少しだけいつもよりトーンが下がった快活な声は、間違いなく土浦だった。
「だって、びっくりしたから。……突然電話来るなんて、思わなかったし」
『……そうか?』
香穂子が言うと、訝しげに土浦が尋ねた。少しの間をおいた後『まあ、別にいいけどな』と土浦はひとりごちた。
『それより香穂。お前今日暇だよな? 俺、今からお前んち行っていいか?』
「……うん! 特に予定はないから、全然かまわないよ」
むしろ、願ったりだけど。という声は心の中に押し込めて、香穂子は弾んだ声で答えた。
『じゃあ、出かける用意して待ってろ。30分くらいでそっち行くから』
「う、うん。わかった」
『30分後にな』
端的に用件だけを告げて、土浦の電話は切れた。あまり喋るネタがないと言って、普段はほとんどメールだけしか使わない土浦だから、それでも電話をかけてくることは随分と珍しい。
通話の途切れた携帯を見つめ、土浦との会話の余韻に浸りながら、ふと香穂子は我に返り首を傾げた。
「……出かける?」
……突然、何故?
1時間後、香穂子と土浦は駅前通りの、星奏の女生徒達には有名な洋菓子店の喫茶コーナーにいた。店内に満ちているバニラやチョコの甘ったるい香りに、そこまで甘いものが苦手ではないはずの土浦も、少しだけ居心地が悪そうな顔で、ブラックのコーヒーに口を付けている。
その目の前で、香穂子は季節限定のフルーツタルトを食べている。香穂子がお気に入りのこの店に、半ば強制的に連れて来られ、「奢るから、好きなもの食っていいぜ」と、強引に席に座らされたのだ。
タルトの欠片を丁寧に切って、フォークで口元に運びながら、上目遣いに香穂子は土浦を見つめる。……理由はよくわからないが、何となく土浦から発される空気がぴりりと鋭く刺さる。……何か、怒らせてるのかなと思った。
ふと、こちらを見た土浦と目が合う。伺うように自分を見ている香穂子に気付いて、土浦は小さな溜息をついて、片手に持っていたコーヒーカップをソーサーの上に戻した。
「その顔。……何で、俺が怒ってるのかって思ってんだろ」
「う……うん」
香穂子は自分ではあまりよく分かっていないが、考えていることが表情に透けて出やすい。不安げに、上目遣いに土浦を伺う様子から、顔に「何で怒ってるんだろう」とでかでかと書いてある。
「……お前の方に、俺に怒られるような心当たりはないのか?」
「え……?」
怒られる、心当たりはない。土浦に対して、今日の自分が複雑な感情を持っているのは、香穂子の一方的な理由でしかないから。
だが香穂子の想像に反し、土浦は再度小さな溜息をついて、吐き捨てるように意外なことを言った。
「……お前さ、今日誕生日だろ?」
香穂子は、タルトの欠片を運びかけていた手の動きをぴたりと止めた。呆然と土浦を見ると、やっぱりか、と彼は天井を仰いだ。
……何で知っていたんだろう。
例によって、天羽のおせっかいなのだろうか。香穂子が言い出せないのを知っていて、こっそりと土浦に伝えておいてくれたとか。
……そう考えて、香穂子は小さく首を振る。天羽は香穂子が土浦と誕生日を一緒に過ごすものだと思い込んでいた。だから昨日会った時も「私達も盛大にお祝してあげたいところだけどさ、ここは彼氏と過ごす初めての誕生日ってことで、土浦くんに譲るべきでしょう!」と満面の笑みで肩を叩かれた。そんな天羽に香穂子は結局、まだ土浦が翌日が香穂子の誕生日であることを知らないのだとは言い出せなかったのだ。
「……とにかく、最後まで食っちまえ。そしたら移動して、少し人目がないところで話そうぜ。丁度いい機会だから、俺もお前にちゃんと言っておきたいことがある」
土浦が香穂子の皿に残ったままのタルトの欠片を指差して、そう告げた。香穂子はこくこくと頷いて、小さく切り分けたタルトの欠片を口元へ運ぶ動作を再開する。
……思いがけなく、土浦に逢いに来てもらって。
誕生日のことを言い出せなくても、結果的には誕生日を一番大好きな人と一緒に過ごせるのだということで、少しだけ心は明るくなっていたのに。
土浦が告げた、『ちゃんと言っておきたいこと』の内容が気にかかって、それから先、口の中に運んだせっかくの大好きなタルトは、全く味がしなかった。
臨海公園は海からの風が強い。
観光名所でもあるし、普段の休日には人影が多い場所ではあるのだが、今日はあまり気温が高くないせいか、公園内の人影は、思った以上に少なかった。
かろうじて陽射しが届く木陰のベンチを選んで、土浦が先に腰かける。片手で促されて、香穂子は恐る恐る土浦の隣に続けて腰を下ろした。一定の距離を取って座った香穂子に、土浦が今日何度目か分からない溜息をついた。
「……回りくどいのは好きじゃねえから。単刀直入に言わせてもらう」
怒鳴るような強い言い方ではなく、思いがけない静かな声で土浦が切り出した。俯いたままの香穂子は、揃えた両膝の上で拳をぎゅっと強く握る。……土浦が先程まで怒っていた理由はまだよく分からないままだったが、土浦がまとっていたぴりぴりとした雰囲気から、どんな言葉が出てきてもおかしくないような気がした。
……それが、「別れたい」という言葉であったとしても。
よりによって誕生日にそんなことを言われるのはあんまりだと思うが、先程の土浦の様子から、あまり楽観していて余計に打ちのめされることは避けたかった。
だから、痛みに耐える覚悟を決める。もしそう言われても、こんなに好きなのだから、簡単には納得は出来ないだろうけど。
それでも、最初の刃が深く深く、胸を抉ることだけは違いない。
そう覚悟を決めて、ぎゅっと目をつぶった香穂子の耳に飛び込んできたのは、意外な言葉だった。
「……お前さ、そろそろ俺に変な遠慮するの、やめないか?」
香穂子は、ゆっくりと目をあける。ぱちぱち、と瞬きをして、自分が強く拳に握り締めていた手の甲を見つめた。
それから、緩慢な動きで隣の土浦を見る。ベンチの背もたれに頬杖をついて香穂子の方を見ていた土浦は、呆れたように笑った。
「お前の事だから、誕生日だからっていちいち俺に教えるのも迷惑なんじゃないか、なんて考えたんだろうけど。……なかなか彼女が誕生日を教えてくれない、そういう彼氏の気持ちも考えてみろよ」
結構ショックだぞ、と土浦はぼそりと呟いた。
「だって……、でも……」
何を言っていいのか、香穂子には分からない。
土浦の言葉が意外過ぎて、咄嗟に理解が追い付かない。
「わ、別れようって話じゃなく?」
「……何で別れなきゃなんねえんだ?」
憮然として土浦が顔をしかめる。……過剰なくらいに気構えていたのに、肩透かしを食らった気分だった。
「……お前が。俺の事を考えて、いろいろ気ぃ使ってくれてんのは分かってるさ。だけど逆に、もう少しお前は俺に甘えてくれたっていいだろ」
ふと、伸ばされた土浦の手が、香穂子の膝の上に乗せられていた両の拳に触れる。
片手ですっぽり香穂子の両手が収まってしまうくらいの、大きな手。
あの繊細で情熱的な、香穂子の愛するピアノの音色を生み出す手だ。……暖かい、人の熱を持つ。
「あんまり俺を見くびるなよ、香穂。……お前の小さな我侭を受け止められないくらい、俺の器は小さくはない。お前が我侭だと思い込んでることの大半は、本当は全然、我侭なんかじゃねえんだよ」
本当に、土浦が辛かったのは。
香穂子の小さな我侭や、願いを。
口に出せなくしてしまったのは、自分自身であるということ。
勝手に、強い女だと思っていたから。気丈な奴だと、思い込んでいたから。
いつの間にか、香穂子が香穂子の弱さを土浦に曝け出せなくなっていることに、気付いてやれなかったのだ。
「……つ、土浦くんは」
香穂子は慌てて何度か息を呑んで、込み上げてきそうな感情を押し込めた。
土浦の言葉が、優しくて、暖かくて。香穂子の心の奥底に在った、冷たくて固いものを難無く溶かしてしまって。さっき自分が泣くと予想したことと正反対の理由で、やはり泣いてしまいそうになったのだ。
「どうして、私の誕生日、知ってたの?」
「……ああ、やっぱり忘れてやがったな」
香穂子の手に指先を触れさせたまま、鍵盤を叩く時のような優しさと繊細さで、土浦は香穂子の手の甲を労るように指先で叩いた。
「お前、春頃に、俺の前で火原先輩とそういう話してたんだぜ」
三人でエントランスで話し込んでいた時に、何かのきっかけで、誕生日の話になった。火原が自分の誕生日が結構クリスマスに近いから、親しい友人には一緒くたに祝われると嘆いていて。香穂子が妙に実感がこもった声で、そうですよね、と頷いたのだ。
(おれも、微妙といえば微妙なところだけどさ。それでも、クリスマスまで二週間切っちゃってるからなあ)
(分かります。私も、ちょうどプレゼントもらうのがクリスマス商戦始まってる頃だから、それ関連のものが多くて。結構季節限定されてて、使いにくいのとかあったりするんですよ。……さすがに一緒にお祝いされるほどには、近くはないんですけど)
(へえ、何日なの?)
(1日です)
その後、土浦が「俺なんか夏休みに入ってるから、ダチ関係には滅多に祝ってもらえないぜ」と会話に入り込んで、徐々に違う話題へと流れていったのだけれど。
そんな雑談の中にまぎれていた香穂子の欠片を、土浦はきちんと記憶に焼き付けていたのだ。
「好きな相手の、そういう大事な情報を聞き逃すほど、俺は間抜けじゃない」
だが、香穂子がその時の会話を覚えているとは思わなかった。もし言ったことを覚えていたとしても、土浦が覚えているとは考えないだろうと思った。だからこそ、彼女の誕生日が近くなった頃、香穂子本人の口からそれを教えてもらえると、そう期待していたのに。
「俺に祝われたくないのかとか……俺も、余計な心配してみたり、な」
「そんなことないよ!……だけど」
「うん。……お前が我侭、言えないようにしちまったんだ。……俺が」
香穂子が自分へと与えてくれる気持ち、気遣ってくれる気持ちに、土浦の方が甘えていた。だからこそ、香穂子がいつの間にか土浦に甘えられなくなっている現状に気付いてやれなかった。
そう……香穂子が言い出さなくても、自分の方が言えばよかったのだ。
誕生日に、俺にして欲しいことがあるかと。……そう、一言。
「だから今日怒ってたのは、……なんつーか、俺自身に怒ってたんだよ。……悪かったな、ビビらせて」
「う、ううん」
ふるふる、と香穂子は首を横に振る。悪いと言えば、香穂子も悪いのだ。土浦に言い出せなかったのは、土浦の事を気遣った、それだけが原因じゃない。
聞き分けのいい、物わかりのいい彼女でいようとした。ただ、土浦に嫌われないために。
それは浅ましくて、とても卑怯な感情だ。
「本当は。……本当は、土浦くんと一緒に誕生日過ごしたかった。おめでとうって言って、祝って欲しかったの。それが本心なんだから、ちゃんと言わなきゃいけなかったんだ。……私だって、もし土浦くんの誕生日、教えてもらえないままスルーなんて事になったら、きっと傷付くし」
うん、と土浦が頷いた。
「だから、一か八か電話したんだ。……もし予定が入ってるって言われたら、相当凹んでただろうな」
電話の時の土浦とのやりとりを思い出し、香穂子は笑う。
「暇だって決めつけてたのに」
「強気に出なきゃ、やってられないだろ」
しかめ面で土浦が呟き、ふと思い出したように自分のダウンジャケットのポケットに手を当てた。何事かと首を傾げて見守る香穂子の目の前で、ごそごそとポケットから掌サイズの小箱を取り出した。
「話が落ち着いたところで、これ、やる」
ほい、と放られた小箱を香穂子は慌てて両手で受け止める。金色のリボンで綺麗にラッピングされたそれは、意外に軽い。
「あ、開けていい?」
「ああ。……リクエスト聞けなかったからな。俺が勝手に選んじまった。気に入らなくても文句言うなよ」
丁寧にリボンを解いて、完全包装の包装紙をゆっくりと開いていく。中に入っていたものを両手の指先で摘んで、目線の高さに持ち上げてみた。
きちんとケースに収められていたそれは、シルバーのネックレスだった。ヘッドは羽根の形。羽根の中心にピンクの石が収まっていた。
ふあああ、と香穂子が感激で珍妙な声を上げた。そっぽを向いた土浦の横顔を見上げると、精悍な頬が朱に染まる。
「……やっぱり、クリスマスが近いからか、そういうのがやたらと目についてさ」
柄じゃねえよな、と嘆く土浦の、目の前にあった大きな片腕に。
思わず香穂子はぎゅっと縋り付いた。
「……お、おい、香穂……」
「可愛い、嬉しい! ありがと、土浦くん! ホントにありがとう! 絶対、一生大事にするからね!」
寒さで鼻の頭と頬を赤くした香穂子が、土浦の腕に抱きついて、溶けそうなくらいの無邪気に甘い笑顔で、土浦を見上げる。一瞬息を呑んだ土浦が、ぽつりと「……ヤバい」と呟いた。
「え?」
何が、と聞きかけた香穂子に、土浦の影が近付く。それ以上何も言えないでいるうちに、土浦の片腕が香穂子の後頭部へと回され、瞬きをする間に、強く引き寄せられて、口付けられた。
……今まで、軽く抱擁されたり、触れるだけのキスをしたり。そういうことは確かにあったけれど。
こんなふうに、土浦の振るまいに強く異性を感じることは、初めてのような気がする。
突然の事で、一瞬驚きはしたものの。
香穂子はゆるゆると目を閉じて、繰返し、深まっていく土浦の口付けを受け入れる。
僅かに唇が離れる。目尻を細める土浦が「誕生日、おめでとう」と囁いてくれて。
至近距離で見つめあって、それからまた、どちらからともなく目を閉じて、口付けて。
何度も何度も繰返して、抱き締めて、抱き締められる。
別に哀しいことは何もないのに、何故だかふわりと涙が浮かんだ。
……それは、幸せで嬉しい涙だった。
(私、これが欲しかったのかなあ)
土浦の気持ちを疑ったことはない。
自分の気持ちを迷ったことはない。
だけど、本当に二人の間に確かな『愛情』があることを実感したのは、もしかしたら今日が初めてなのかもしれない。
(ちゃんと、ここにあるんだ)
目に見えなくても、触れられなくても。
香穂子と土浦の間に、同じ形の愛情が。
その事実が、どうしようもなく。……それこそ、泣けるくらいに。
香穂子は嬉しかった。
「……悪い」
香穂子をぎゅっと腕の中に抱いて。
香穂子の肩に顎を乗せたまま、土浦がぼそりと呟いた。
「抑え、効かなかった」
「……ううん」
ふるふると首を横に振って、香穂子は土浦からもらったネックレスを、大事に大事に手の中に握りしめる。
「そういうのは嬉しいから。……いいんだよ」
自分も、土浦も。
お互いにいっぱい、何かを我慢をしてたんだなあ、と香穂子は思う。
それはきっと、お互いがお互いを大切に想うからこそのことなのだけれど。
だが今になって改めて振り返ってみれば、それは随分とひとりよがりの思考で。
ひどく寂しいことだったと思うのだ。
『恋愛』は、二人で作っていくはずのものなのに、いつの間にか香穂子も土浦も、ただ一人だけで頑張っていた。
せっかく、いろんな気持ちを分かち合えるはずの相手がいるのに。
「もう、土浦くんも抑えなくていいよ。我慢なんてしなくてもいい。私ももう、我慢しないから。……そんなふうに『求められる』のは嬉しいんだって、ちゃんと分かったから」
二人が抱えているものが同じ強さの想いであるなら、きっと香穂子が求められることを嬉しいと思えるように、土浦も香穂子に求められることを、嬉しいと思ってくれるのだろうから。
身を起こしてまじまじと香穂子の顔を見つめた土浦が、ふと微笑む。
それは、優しくて、甘やかで。
そして、多分香穂子しか知らないはずの、色香を含んだ笑みだった。
「……そういうこと簡単に言って。後悔するなよ?」
しないもん、という抗議の言葉は、また触れる土浦の唇の奥へ呑み込まれる。
どん底からスタートしたはずの、生涯たった一度の17回目の今日が、こんな結論で終わっていくのなら。
間違いなく、生まれてからこれまでの中で最高の誕生日だったなあと。
土浦の味に酔っていく思考の片隅で、ぼんやりと香穂子は思った。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.11.30 加筆修正:10.5】
友人への誕生日プレゼント創作です。よって、このお話内の香穂子の誕生日は、友人の誕生日に設定してあります。プレゼント創作ということで、土日で今まで書いたことのないものを目指してみました。つまりは、糖度高めというやつを(笑)
「甘く~あ~ま~く~」と唱えながら書いてました(笑)少しは御利益あったでしょうか?


