頻度として多くはないであろうが、日の長い時期、気候のいい時には穏やかで心地いい一時を過ごすことができる。大抵学校の練習室でヴァイオリンの練習をした後だから、公園内にも子供達の賑やかな声はそんなに騒がしくは聞こえない。遊具の側にぽつぽつと、帰りそびれた数人が残っているだけだ。
自販機の側にある簡素なベンチに腰を下ろし、少しだけ香穂子と月森は立ち止まる。
特別な意味はない、その一時がなくても生活の何を左右することもない、何でもない時間を過ごす。
だが、それも二人で送るわずかな時間であるのなら、確かな幸福の欠片には違いない。
月森をベンチに座らせて、香穂子は隣の自販機の前に立つ。月森が飲むものは決まっているから、既に取り出し口に降りて来たそれを、香穂子の片手が大事そうに握っている。
自分が飲むべきものを決められず、香穂子は選択ボタンを押すための人指し指を、空に掲げてしばらくの間漂わせる。やがて、よし、と小さく呟いて、目当てのボタンを押した。がたんと大きな音を立てて落ちて来た清涼飲料水の缶を、空いた片手で取り出した。
「お待たせ致しました」
うやうやしい口調で言い、香穂子が月森の紅茶を差し出した。
ありがとう、と微笑んで月森の片手がそれを受け取ると、ふと月森の表情をまじまじと見て口をつぐんだ香穂子が、ふわりと破顔した。
「……何だか、笑顔が増えたね。月森くん」
少しだけ眩しいものを見るように目を細め、香穂子が言う。
「そう……だろうか」
思わず空いている片手の指先で自分の頬に触れ、月森が呟く。うん、と大きく頷いて、香穂子が月森の隣に腰を下ろす。
「初めて逢った頃からだと、想像が付かないよ。逢うたびに仏頂面だったもん」
思い出したのか、香穂子が微かに眉間に皺を寄せて、顔をしかめた。
「……だとしたら、君のおかげだ」
プルトップを引き開けて、月森が言う。同じように自分の缶を開けた香穂子が、その缶を口元へ運びながら、きょとんとした表情で月森を見つめる。
「そうなの?」
「ああ」
全く自覚がない彼女に苦笑して。
月森は頷いた。
彼女に出逢う前は、月森は自分自身のことを自分でよく理解しているつもりだった。
ヴァイオリンに対しては誠実に。
取り巻く自分以外の人間には、付かず離れずの絶妙な位置を保ち。
……器用に上手く誰かをあしらう術を知らず、表の虚構を保ちながら、裏側で足掻く。
その生活は、すべてヴァイオリンに向けられていて。
それ以外のものは必要じゃなかった。
他に目を向けてしまうと、何一つ自分の手の中には残せずに、全てを失ってしまうような気がしていた。
だけど、彼女に出逢ってからの自分は。
自由に振る舞う、抵抗なく広い世界を見る彼女の手に後押しされて。
無駄なものに目を向ける。
自分以外の存在を許して、優しくなる。
たとえ、それが限られた存在に対してのみであったとしても。
『そう』できる自分を知った。
自分が認識していた『自分』以外の顔が、自分の中にまだ存在していることを知った。
自分の何もかもを知り尽くしたつもりで。
自分で自分という人間の限界を決めつけて。
もう、これ以上自分の中に、新しい存在はいないと諦めていたのに。
……彼女が、自分の中にこっそりと隠れていた、見知らぬ『自分』を生み出すための、きっかけを与えてくれた。
「……だったら嬉しいなあ」
両手の中に缶の曲線を抱き、前方を見据える優しい眼差は、ふわりとした綿のように、柔らかい言葉を呟いた。
その綻んだ横顔に、月森も。
優しくて、愛おしい。
今の自分達に降り注ぐ、暖かい陽射しのような。
そんな、心地よさを感じた。
それもまた、今まであまり自分が経験することがなかった、とても穏やかな感情が芽生える瞬間。
自分達は繰り返す。
日常という名の、一見同じように見えてしまう生活を。
だけど、日々は前へ進む。
人々は、忘れる生き物だけど。
知識、感情……この身に降り掛かる様々な物事を。
少しずつ、蓄積しながら生きていく。
誕生というものを、無の存在だったものが有に転じるものだと仮定するならば。
きっと人というものは、毎日小さな『誕生』を、その胸に抱きながら生きるものなのだろう。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.1.4】
物凄く甘さの欠片もない話だとは思いますが(笑)何となく、思想というのか、そういうの?を書いてみたかったのです。
毎日違う自分と出会えるんだよ、と思えてた方が、自分の限界とかに惑わされることはないのかなと。


